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【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(2)西郷と勝 虫のよい嘆願

横たわる火種

 (1)旧幕府最後の将軍、徳川慶喜は謹慎・恭順のうえ備前(岡山)藩預かり(2)江戸城明け渡し(3)軍艦すべての引き渡し(4)武器すべての引き渡し(5)江戸城内居住の家臣は向島で謹慎(6)鳥羽伏見の戦いにくみした旧幕府軍側の関係者・藩を厳重に取り調べ、謝罪させる(7)江戸城下で徳川家では対処できない暴動が起こったさいには官軍が鎮圧する-。

終戦の日、皇居前広場で。世界からの観光客が巡礼するかのように列をつくっていた=8月15日正午すぎ、東京都千代田区(関厚夫撮影)
終戦の日、皇居前広場で。世界からの観光客が巡礼するかのように列をつくっていた=8月15日正午すぎ、東京都千代田区(関厚夫撮影)
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 勝・西郷会談が始まる前日の3月12日(とみられる)、山岡鉄舟が勝たち旧幕府首脳にもたらした西郷からの降伏条件である。

 寛永寺(東京・上野)に謹慎中の慶喜の命を受けた山岡は、駿府(静岡市)に駐屯していた東征大総督府(新政府軍の統率組織)のなかを命懸けで分け入って西郷と面会。またその帰りぎわ、あやうく銃撃で一命を落とすところを奇跡的に無傷で切り抜けて生還していた。

 前述の和平条件のうち、(5)~(7)はさほど問題にならない。(1)の「慶喜備前藩預かり」については、山岡が「これだけは受けられ申さず。もし実行されれば徳川家士が怒りで暴発し、結果として江戸は火の海となりましょう」と決死の覚悟で反論し、西郷から「承知した。この件は山岡先生の心配ないよう取り扱おう」との確約を得ていた。実際この後、備前藩の代わりに慶喜の出身母体である水戸藩で謹慎する-という旧幕府側の対案が認められる。

 ちなみに外様大名・備前藩の藩主、池田茂政(もちまさ)は水戸藩からの養子で慶喜の実弟だった。しかし、幕末の政局において備前藩にはもともと幕府とは一線を画すところがあったうえ、鳥羽伏見の戦いの後、「慶喜を追討するための東海道軍の先鋒(せんぽう)に任ず」の朝命を受けた備前藩兵は西郷とともに従軍していた。

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