PR

ライフ ライフ

【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(2)西郷と勝 虫のよい嘆願

前のニュース

終戦の日、皇居外苑で

皇居外苑の楠木正成像(背面から)。この楠公像の視線の先には皇居がある=8月15日、東京都千代田区(関厚夫撮影)
皇居外苑の楠木正成像(背面から)。この楠公像の視線の先には皇居がある=8月15日、東京都千代田区(関厚夫撮影)
その他の写真を見る(1/2枚)

 照ったり曇ったり、突風が吹いたり、にわか雨に見舞われたり-と荒れ模様の天気となった今年の終戦の日の東京・皇居外苑。昼前、南東にある楠木正成像や楠公駐車場周辺から、また1キロほど東にある東京駅からの観光客の流れが「二重橋(皇居正門鉄橋)」にのぞむ皇居前広場で一つになるさまはまるで聖地に向かう巡礼の列のようにみえた。

 とはいえ、中国語や韓国語が飛び交い、欧米系の老若男女の姿も目立つ。むしろ日本人のほうが珍しいくらいだった。

 正午。

 二重橋を眺めたり、自撮りや記念撮影に余念がなかったりする観光客の姿は変わらなかった。それまでの違いといえば、かすかにお昼を知らせる鐘かサイレンのような音が聞こえてきたことだけだっただろう。

 74年前の8月15日正午、終戦を告げる玉音放送が始まった。その日の皇居前広場の様子を読売報知紙(当時)は1面で写真とともに「地に伏して肅然聖恩に咽(むせ)ぶ…宮城前赤子の群」と報じている。

 それからさらにさかのぼること77年前の慶応4(後の明治元=1868)年3月10日(旧暦)。勝海舟の「慶応四戊辰(ぼしん)日記」によると、このころ、後の皇居である江戸城の内外で「血涙」を流す姿がみられたという。

 西郷隆盛が参謀を務める新政府軍の主力は江戸を包囲しつつあった。しかし、前将軍の徳川慶喜は開戦を否定し、恭順の姿勢を崩さない。

 「慶喜を切ってお家を維持すべきだ!」

 そんな声に呼応し、興奮のあまり血走った目から涙を流し、「開戦だ!」と怒号する者が「ことに多かった」という。慶喜から全権を委任されたかっこうで新政府軍との交渉にあたっていた勝自身についても「『暗殺しよう』という者もまた多かった」と記している。

続きを読む

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ