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【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(5)西郷と勝 慶喜は激怒したのか

西郷隆盛像のすぐ後方(北側)にある「彰義隊の墓」=東京都台東区の上野公園(関厚夫撮影)
西郷隆盛像のすぐ後方(北側)にある「彰義隊の墓」=東京都台東区の上野公園(関厚夫撮影)
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 不平等条約撤廃を筆頭として欧米と対等の通商・外交関係の樹立は新政府の悲願だったが、前提となる「万国公法の順守徹底」をゆるがす事件が相次いでいた。加えてパークスに大きな借りや負い目があった。

西郷の真意

 私見ではあるが、新政府軍を統制するためにパークスの開戦反対を最も効果的に使ったのが西郷である。

 後年、日露戦争を決着させるポーツマス条約の全権を務めた小村寿太郎は、身内をまとめることの難しさを「外交は即ち内交なり」と評したという。西郷は約1カ月前、公家トップの岩倉具視や盟友、大久保利通との間で「恭順ならば慶喜助命」で内密に合意している。しかし、兵を鼓舞するためとはいえ自ら「慶喜断罪」「江戸城総攻撃」をたきつけてきた手前、いきなり「助命」「攻撃中止」とは口が裂けても言えない。

 パークスの反対は西郷には「渡りに船」だっただろうし、それが「それはかえって幸いだ。このことは自分で言うことにしよう」という、前回紹介した少々不可解な独白となったのではないか。つまり西郷が「自分で言う」対象は、そんなことをすれば利敵行為でしかない旧幕府代表の勝ではなく、板垣や新政府内の開戦派だったと解釈すれば合点がゆく。この後、西郷は京都の朝廷で開戦派の説得にあたる。期せずして-というべきか、そのさい「苦戦」する西郷の強力な「援軍」となったのが長州藩トップの木戸孝允だった。

藪の中-勝と慶喜

 内部をまとめるのに西郷以上に心身を砕き、一命を賭したのが勝だった。

 総攻撃は回避されたが、市街を脱出する武家や町人の波が絶えない。治安は乱れ、「強盗が全域に出没、貨物を略奪し、婦女に乱暴す。悲しみに耐えず」と勝は「慶応四戊辰(ぼしん)日記」につづっている。また4月3日の項には「旧幕府の旗本や土佐藩などがわが心中を疑い、『暗殺せよ』との声盛ん」とある。

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