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【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(4)西郷と勝 慶喜助命は暗黙の了解 

 もちろん、同様の内容の書簡を送った可能性は捨てきれない。が、渡辺証言の信頼性は高い(次回に詳述する)。二重の記載が勝による過誤か故意かは判然としないが、渡辺証言の方が2月の勝書簡の内容に近いと思われてならない。

 さて一連の西郷の強硬姿勢にもかかわらず、2月中旬に西郷が新政府軍の参謀トップとして京都を発した前後には、「慶喜助命」は西郷もひそかに了解した新政府首脳内々の方針だった-といえば、信じていただけるだろうか。

なぞの安堵

 「恭順のかどをもち、慶喜処分の儀は、寛大仁恕のおぼしめしによって死一等を減ぜられるべし」

 この年2月に大久保が作成した意見書である。ほかに慶喜の備前(岡山)藩預かりや江戸城明け渡し、全兵器・軍艦の引き渡しなどが個条書きされている。これらの内容は西郷が最初に山岡に提示した内容と同一である。この意見書は新政府の公家方トップである岩倉具視にあてられている。大久保が事前に西郷と協議し、その同意をえていたことはまちがいないだろう。

 慶喜に対する最強硬姿勢は味方をも欺く西郷の大芝居だったわけだが、こんな証言もある。

 勝・西郷会談の直前、前述の渡辺は西郷に命じられ、長州藩代表の木梨精一郎(維新後は長野県知事、男爵)と横浜に向かった。江戸城攻撃のさい、優秀な英国人医師に新政府軍の負傷者を治療してもらえるよう駐日英国公使のパークスに依頼するためだった。

 ところがパークスは血相を変え、「罪を悔い、恭順している前将軍に戦争を仕掛けるとはいったいどういう了簡か。そもそも開戦のさいには政府が外国人居留地に警衛兵を派遣し、安全を保障すべきなのにそんな通知も気配もない。この国は無政府状態である」。暗に「万国公法違反」という新政府にとって最も痛いところを突きながら非難をはじめたのだ。

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