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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第3章 維新回天の原動力(6)

伊藤博文が寄進した石灯籠(左)。台座に載せられ、他の灯籠より高い =神戸市中央区の湊川神社(恵守乾撮影)
伊藤博文が寄進した石灯籠(左)。台座に載せられ、他の灯籠より高い =神戸市中央区の湊川神社(恵守乾撮影)

 ■「周旋家」 湊川神社創建に尽力

 台座も合わせると、高さが3メートルほどもある。楠木正成(くすのき・まさしげ)を主祭神とする湊川神社(神戸市中央区)の境内の一角にあるのは、正成を崇敬した初代総理大臣・伊藤博文が明治時代に寄進した石灯籠だ。長州藩出身で初代兵庫県知事も務めた伊藤は、同神社の創建に最も尽力した「志士」である。

 「神社の創建に一番大きく関わった人物。伊藤博文がいなければ、神社は今のような形になっていなかったかもしれない」

 同神社の垣田宗彦宮司はそう語る。明治天皇が正成を祭る同神社の創建を命じたのは、明治への改元を控えた慶応4(1868)年4月21日。「創祀御沙汰(そうしごさた)」は最大限の賛辞とも呼べる表現で、理由を以下のように記す。

 〈楠贈正三位中将正成(くすのきぞうしょうさんみのちゅうじょうまさしげ) 精忠節義(せいちゅうせつぎ)其功烈萬世輝(そのこうれつばんせいにかがやき)真千歳之一人(まことにせんざいのいちにん) 臣子之亀鑑候(しんしのきかんにそうろう)(楠木正成の忠義の功績は永遠に輝き、千年に一人の存在で臣下の鑑である)〉

 創建の源となる建白書を提出した中心人物が、当時は兵庫裁判所の官吏を務めていた伊藤だった。この当時、尾張藩などが同様に正成を祭る神社の造営に向けて活動していた。尾張藩は京都での創建を目指しており、最後の藩主・徳川義宜(よしのり)は神戸での建設が決まった後も建白書を提出した。だが、政府内の話し合いで出た「廟社(びょうしゃ)は戦死した遺跡に建てるものである」との意見が決め手となり、計画は実現しなかった。

 湊川神社は明治5(1872)年に創建。起源は水戸藩第2代藩主・徳川光圀が元禄5(1692)年に建立した正成の墓所だった。

 〈楠公が決死肝脳を砕き、楠公が汗したたり血を吸つたその遺蹟(いせき)の重みといふものを、人は深くもまた強く噛みしめてゐたといふことなのである〉

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