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【文芸時評】9月号 文化は不変ではない 早稲田大学教授・石原千秋

 「高校の国語教育から文学がなくなる」問題では、7月号の「すばる」に続いて、今月は「文学界」で特集を組んだ。僕には「何をいまさら」という感がある。いま文学や文学研究が成立しているのは国語教育に文学があってこそだという大前提になぜ気づかなかったのか、その能天気ぶりに呆(あき)れる。ここまで追い詰められて既得権が危うくなったので慌てているとしか見えない。そんなわけであまり参戦する気にはなれないのだが、少しだけ触れておきたい。

 僕自身の考えは以前にこの欄で「文化が世界の形を決める」(平成28年12月25日)と題して、直接には文学部の廃止問題として書いた。要点は、科学や技術は開発できることはすべてやって世界の形を変えてしまうだろうから、それをどこまで進めるのか、どこで止めるのか、それを決めるのが文化だというところにある。もちろん、「時間厳守」という文化が鉄道の発展によって作られたように、文化は不変ではない。フェミニズムという思想はいまも文化を変えつつある。文化はさまざまな要因で変化する。漱石文学を研究していると、明治以降でさえ、文化がどれほど変わってきたかを痛感させられる。それを容認できないのが保守である。それは構わないが、文化は常に変化し続けてきたという事実を認めないとなると、知的でない。だから、齋藤孝「教育とは『文化遺産』の継承」(文学界)などというのは知的でない保守なのだが、この手の議論がいかに多いことか。

 日本文学関連の16の学会も連名で、今度の国語教育改革が人文知の衰退を招く危惧があるという「見解」を出したが(各学会のホームページで読むことができる)、この「見解」作成の段階で、ある研究者が不思議なことに気づいた。文部科学省の「学習指導要領」が、ある時点で書き換えられたのである。はじめは何度も「非文学」=「ノンフィクション」と繰り返していたのに、その後この言葉がごっそり削除されたのだ。フィクションであるかノンフィクションであるかなど区別のしようがないではないかという「見解」を用意していた時点で気づいたので、その後「見解」は修正することになったようだ。不思議なことがあるものだ。僕が見たもっとも情けない「声明」は日本文藝家協会のものだ。国語改革への疑問は識者からも出されてるから議論してねというようなテイストなのだ。批判覚悟で、自らの言葉で文学の価値を語るべき時ではないのか。

 千葉雅也「デッドライン」(新潮)は、ゲイとして生きる「僕」が現代思想(ジル・ドゥルーズ)を学ぶまでを書いた一種の青春グラフィティーである。終わり近くの「僕は線になる。/自分自身が、自分のデッドラインになるのだ。」を読んだとき、ごく自然に次の一節が頭に浮かんだ。「血を縁に残したガラスの破片は夜明けの空気に染まりながら透明に近い。/限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。」(村上龍『限りなく透明に近いブルー』)である。何かになりたいと思うこと、それが青春の終わりだと教えてくれる。しかし、「デッドライン」に『限りなく透明に近いブルー』の衝撃はない。

 木村紅美「夜の底の兎」(群像)では、桐子は事実婚をしている夫と小さな建築事務所を経営するが、事務所の元アルバイト芽衣が夫の子を妊娠した。ちょうど報道されている優生学上の見地から強制的に不妊手術を施された女性たちのニュースに触れて、桐子は自分は子供を作れたのにと悔いるような気持ちになる。桐子が「産んだり、産まなかったりするのを選ぶ自由を奪われた、ということこそが、問題なんです。」と責められる場面がキモなのだろうが、「その通り」というレベル以上ではない。この程度なら、エッセーでも書けるではないか。ここには桐子独自の世界がない。

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