PR

ライフ ライフ

【話の肖像画】ファーストリテイリング会長兼社長・柳井正(70)(8)

前のニュース

平成6年7月14日、広島証券取引所に上場したとき(右から2人目)
平成6年7月14日、広島証券取引所に上場したとき(右から2人目)

■商売人から経営者へ

 〈事実上の縁故入社だったジャスコ(現イオン)を9カ月で辞めた〉

 今度は父親に「アメリカに留学しようかと考えている」と言い、再び東京に戻りました。英会話学校へ通っていたが、ぶらぶらグセは直っていませんでした。以前から付き合っていた、今の家内との結婚も考えていたが、半年くらいしてから「結婚を認めるから帰ってこい」という父親の説得に自分でも観念し、昭和47年8月、宇部に戻りました。

 〈宇部で紳士服の家業を継ぎ、25歳で事業を任された。著書『一勝九敗』(新潮社)などでは、失敗の連続だったと振り返る〉

 当時は年商1億円程度の店舗になっていました。不肖の息子とはいえ、ジャスコの仕事の流れや仕組みを実体験しているから、品ぞろえから仕事の流れなど、店全体に効率の悪さを感じていた。商店街の中の洋服屋でグレードの高いスーツを売っていても、回転が悪すぎる。赤字ではないものの、そんなにもうかってはいない。商売の中身が分かってくればくるほど、徐々にいらだってきました。

 仕事はつらいものの、商売というのは売ることだけではなかった。商品の仕入れ、売上金の精算から銀行への入金、決算が終わって税金を納める、面接して社員を採用する、など毎日いろんなことがあったので、次第に面白みを感じてきていました。時間があれば、さまざまなビジネス書を乱読していました。

 当時は「青山」「ゼビオ」などと同じ、紳士服の協同組合に所属していて、郊外型店舗の勃興期にありました。同じ仲間が株式市場に上場していくなかで、当社は紳士服では小規模であり限界を感じていました。カジュアルウエアで郊外型店をやったら面白いかもしれないと漠然と思い始めていました。

 〈昭和59年、ユニクロ第1号店を広島市に出店。60年には郊外型店舗を出店し、その後のユニクロ店舗の原型となる〉

 平成3年に本部社員を集めて、社名をファーストリテイリングに変更すると宣言しました。当時は29店舗だったが、チェーン展開で毎年30店舗増やして3年後に100店舗にし、株式公開を目指す、と表明しました。商売人から経営者へ変わるのです。そして、6年には広島証券取引所に株式を上場しました。

 〈10年、東京に原宿店をオープン。郊外から都心型店舗展開に移行した。「安かろう悪かろう」のイメージから脱却し、1900円のフリースも話題を呼んだ〉

 最初のころは品質も高くなかった。ユニクロのオリジナル商品もほとんどなかった。全商品をユニクロブランドに統一したのは、やはり原宿店を出した頃でした。フリースの成功の陰には、低価格高品質のユニクロブランドで全商品を統一できたという環境の整備もあったと思います。(聞き手 吉村英輝)

次のニュース

関連トピックス

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ