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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第3章 維新回天の原動力(4)正成の精神 長州藩を動かした

 果断ともいえる高杉の行動を支えたものは何か。下関市立東行(とうぎょう)記念館の藤山佳子学芸員は「松陰の死生観が大きな影響を及ぼしたのではないか」とみる。

 〈死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生て大業の見込みあらばいつでも生くべし〉

 松陰はかつて、高杉から死生観を問われて手紙にこう記した。死所を誤らず、しかし成算があれば一度は逃げてでも再起を図るという考えは、湊川の戦いの直前に嫡子・正行(まさつら)に後事を託した正成の精神とも重なるものだ。

 高杉が決起した功山寺近くの旧長府尊攘(そんじょう)堂に隣接して「万骨塔」と呼ばれる慰霊塔がある。長州藩の元藩士、桂弥一(かつら・やいち)が昭和8(1933)年に建立したもので、「皇国」のために尽くした有名無名の人々を祭り、ゆかりの地域や戦跡から運ばれた石を集めたものだ。そこには松陰や高杉の名が刻まれた石とともに、「湊川古戦場址」と刻まれた石も確認できる。約500年の時を隔てながらも、国を思う志士たちの間で「正成」は生きていたのである。=毎週金曜掲載

 ■高杉晋作

 幕末の長州藩士。「東行(とうぎょう)」の号で知られる。尊王攘夷派の志士として倒幕運動を主導した。安政4(1857)年、19歳で吉田松陰の松下村塾に入門。松陰の薫陶を受けて才能をあらわし、同門の久坂玄瑞とともに「松門の双璧」と称された。

 文久2(1862)年、藩の命令で上海に渡航。欧米列強の下で半植民地化した現地の実情を見聞し、帰国後は英国公使館焼き打ちに関与するなど攘夷運動に奔走した。同3年、藩防衛のため身分を問わず人材を集めた「奇兵隊」を結成。のちにその軍事力を背景に藩論を倒幕へと転換させ、明治維新への道を開いた。

 慶応3(1867)年4月、下関で病死。享年29。

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