PR

ライフ ライフ

【日本人の心 楠木正成を読み解く】第3章 維新回天の原動力(4)正成の精神 長州藩を動かした

功山寺境内に立つ高杉晋作像=山口県下関市
功山寺境内に立つ高杉晋作像=山口県下関市
その他の写真を見る(2/2枚)

 攘夷決行の報復として外国艦船の攻撃を受け、京都での復権をねらった禁門の変で久坂玄瑞(くさか・げんずい)ら多くの人材を失い、朝廷に刃を向けた朝敵として幕府軍による討伐を受ける…。存亡の機に立たされた長州藩では、幕府に恭順しようとする保守派が台頭する一方、改革派の中では高杉のように正成に自らの立場を投影し、思考する論理が表れる。

 〈今日之南朝ハ去年八月以前之叡慮(えいりょ)にして、八月以後の偽勅ハ即ち昔日(せきじつ)之北朝〉

 〈今日征討之兵、薩・会(薩摩と会津)之姦謀にして真正之朝命ニあらす、楠公朝敵の名を受とも死て北朝ニ従ハす〉

 元治元(1864)年11月、高杉が結成した奇兵隊を中心とした長州藩の諸隊が藩上層部に提出した意見書は、こう書かれている。自らを南北朝時代の南朝側に見立て、北朝を立てた足利尊氏と戦った正成のように決起しようという文面である。

 高杉がわずか80人の手勢を率い長府・功山寺(こうざんじ)(山口県下関市)で決起したのは、意見書が出された翌月の12月15日。藩の中枢を保守派が握る中にあって、それは無謀にも思える行動でもあった。

 外国艦船の襲来を想定し、農民や町人も交えた有志で構成する「奇兵隊」の結成は、高杉の業績として名高いものの一つだ。しかし、結成後わずか3カ月で初代総督の地位を免じられたこともあり、功山寺決起当時、すでに隊は高杉の手を離れていた。決起に応じたのは伊藤俊輔(博文)率いる力士隊など80人。初めは当の奇兵隊すら決起を「時期尚早」と反対し、動かなかった。

 この状況で、高杉は兵を下関に進め、藩の出先機関である会所(かいしょ)を襲撃し、占拠。次いで三田尻(山口県防府市)に停泊中の藩の軍艦3隻を奪うなどめざましい動きをみせた。その後は奇兵隊をはじめ諸隊との連携も成立し、保守派勢力の一掃に成功。藩論を倒幕へと一本化させる結果をもたらした。

続きを読む

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ