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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第3章 維新回天の原動力(4)正成の精神 長州藩を動かした

功山寺近くの旧長府尊攘堂横に立つ万骨塔。「湊川古戦場址」の石も安置されている=山口県下関市
功山寺近くの旧長府尊攘堂横に立つ万骨塔。「湊川古戦場址」の石も安置されている=山口県下関市
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 〈動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然(しゅうもくがいぜん)、敢(あえ)て正視する者なし〉

 長州藩(現山口県)出身で、明治に入り初代内閣総理大臣などを歴任した伊藤博文(いとう・ひろぶみ)は、幕末当時を振り返り、志士として行動を共にする機会の多かった高杉晋作(たかすぎ・しんさく)をこう表現した。高杉の激しく一途な生き方がうかがえる。

 ペリー来航をきっかけに広まった尊王攘夷思想。その旗頭として長州藩は幕末の政界で存在感を高めていく。しかし、文久3(1863)年8月に起こった政変によって京都を追われると、一転して朝敵として討伐の対象となるなど、短い期間で激しい浮き沈みを経験する。藩内は、保守派と改革派が代わる代わる主導権を握り、そのたびに多くの血が流された。

 高杉もそうした動向と無縁ではいられなかった。はなばなしい戦歴の一方、彼の後半生は脱藩や潜伏、逃亡など常に席の温まる暇のない激動の連続である。藩への忠義を一貫しながらも、脱藩の罪に問われ、師の吉田松陰(よしだ・しょういん)と同じく野山獄(同県萩市)に投じられるなど、不本意な状況を強いられた時期もあった。

 〈楠公(なんこう)如き古今希(ま)れなる忠臣も、空しく討死致され、大塔宮(おおとうのみや)は親王の御身に在(あら)せながら、讒言(ざんげん)の為に土窟の中え幽囚在りて、遂に浅猿(あさま)しき者の手に御命を果されしなり。北条泰時(ほうじょう・やすとき)・足利尊氏(あしかが・たかうじ)の輩は姦臣(かんしん)逆賊にて、子孫代々高位大禄、栄耀(えいよう)に過ごせしは如何なることならん〉

 獄中で高杉は手記にこう認(したた)め、かつて自身も「楠樹(なんじゅ)」と号しあやかろうとした楠木正成(くすのき・まさしげ)の姿に不遇のわが身を重ね、世の不条理を嘆いた。

 下関市立歴史博物館の稲益あゆみ学芸員は「高杉の入牢は、藩主に対する自分の忠義はまったく揺らがない、自分にやましいところは何一つない、という確信を深めさせる時間でもあったのではないか」と語る。高杉の確信を支えたのは、正成の一途な生き方だったのだ。

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