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不発弾、空襲の記憶(上)よみがえる74年前の戦禍 3発の焼夷弾

有明テニスの森公園近くのマンション建設現場で発見された不発弾=7月28日、江東区有明
有明テニスの森公園近くのマンション建設現場で発見された不発弾=7月28日、江東区有明

 「現実離れしていて、ひとごとのように思ってしまいますね」

 7月28日午前、東京都江東区有明地区で行われた不発弾の処理・撤去作業。近くに住む会社員の男性(35)は、足下で不発弾3発が相次いでみつかったことについて、当惑した表情で語った。いずれも米国製の焼夷(しょうい)弾で、74年前、ここが空襲にさらされた事実を改めて私たちに突きつける。

 しかし、東京で生まれ育った25歳の記者は、男性の「ひとごとのよう」という言葉に半ば共感できた。現場は来年の東京五輪・パラリンピックの会場となる「有明テニスの森公園」近くのマンション建設現場。五輪に向かう都市と、空襲の記憶と。実感ある言葉で両者を結ぶことは難しい。

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 4月5日、「不発弾らしきものが見つかった」と110番通報が警察に入ったのは午前9時半ごろ。マンション基礎工事で掘った地下約4メートルの場所にあり、米国製の500ポンド焼夷弾(全長120センチ、直径36センチ)と分かった。さらに6月14日、7月16日にも同様の不発弾が見つかった。

 この時期に、なぜ集中的に見つかったのか。区に取材すると、高層建築のため、これまでより深く地下を掘り下げたことが直接の理由だが、「米軍が空襲の帰りに機体を軽くするため、当時干潟や浅瀬だったあの辺りに、爆発させるつもりがなく落としたのではないか」と担当者は推測する。

 一方、東京大空襲・戦災資料センター(同区北砂)の比江島大和学芸員に話を聞くと、500ポンド焼夷弾は「山の手大空襲」と呼ばれる昭和20年5月25日にしか使われていないという。この空襲では主に皇居の西側、政府機関や金融などの中枢機関が集中する都心地域などが狙われ、頑丈な建物を破壊できる爆弾が選ばれた。

 中でも特に大きい500ポンド焼夷弾は、目標への目印として最初に投下される。そのため「爆撃機のルートから考えても、帰りに落としたとは考えにくい。なぜ有明に不発弾として残っているのか」と比江島さんは首をひねった。

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 ここで視線を現代の不発弾から74年前に移したい。昭和24年の「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」によると、江東区は空襲などによる死者が3万9752人と都内最多で、20年3月10日の東京大空襲では真っ先に標的になったという。

 記者は東京大空襲を体験した女性に初めて会い、凄絶な一夜の体験を聞くことができた。

 83歳の二瓶治代さんは当時、小学2年で城東区亀戸町(現江東区)に住んでいた。当時、3年生以上は学童疎開で東京を離れていたが、6年生だけは卒業式のため疎開先から帰ってきていた。

 「隣とその隣の6年生が帰ってきて、そうすると親戚(しんせき)の人まで集まってきたので急ににぎやかになった。9日は夕方まで近所の友達と戦争ごっこをして遊んでいた」と空襲前日を振り返る。

 周囲が暗くなり、「また明日遊ぼうね」と約束し帰路についた。それが友人との最後の会話となった。空襲が始まったのは10日午前0時8分。「今日はいつもと違う、起きろ!」という父親の大声で起こされた。

 焼夷弾はまず、現在の江東区木場に投下された。亀戸にはまだ炎はなかったが、火の粉が空を舞っていた。父親は消火に当たり、二瓶さんと母親、5歳の妹の3人は防空壕(ごう)に駆け込んだ。中は10人弱しか入れず隣家の家族と肩を寄せ合った。

 「みんな出ろ! 蒸し焼きになるぞ!」

 父親の声で外に出ると、景色は一変していた。渦を巻く火の川が目に飛び込んできた。

(吉沢智美)

 3発の不発弾が今年見つかった東京都江東区。現在と74年前の“2つの現場”を25歳の記者が見つめる。

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