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【書評】『むらさきのスカートの女』 今村夏子著 孤独がゆがませる景色

 人はみな、自分であつらえた眼鏡をかけて世界を眺めている。好きなもの、欲しいものはよりくっきりと、あるいは原寸よりも膨らんで見えるのはしばしばで、都合の悪いことはレンズの端に追いやり、いつしか本当に見えなくなってしまう。

 そうして縁どられた景色のユーモラスないびつさを通じて、社会から弾(はじ)き出された人びとの孤独を巧みにあぶりだしてきたのが今村夏子という作家だろう。みごと芥川賞を受賞した本作は、語り手である「わたし」の視点から、とある女性の姿を覗(のぞ)き見する構図になっている。

 その女-すなわち「むらさきのスカートの女」は、コミュニティーから浮いているように映る存在だ。近所を歩けば大人たちは知らんぷりか、サッと道をあけて避ける。子供たちのふるまいはもっと露骨で、ジャンケンで負けた子が彼女にタッチしては笑いながら逃げるという遊びに興じている。そんな彼女を一方的に観察しながら「友達になりたい」と切望している「わたし」は、距離を縮めたい一心で頓狂なチャレンジを繰り返す。

 当初、読者は「むらさきのスカートの女」の、いかにも珍妙で社会性のなさそうな様子を野次(やじ)馬的に鑑賞することになるだろう。ところが「わたし」と同じホテルで働くことになった彼女は、意外にもキビキビと動き、職場の人間関係の輪に良くも悪くも溶け込んでいく。つまり、彼女はごく「普通」の人間なのだということ-その事実が判明するや、今度は「わたし」自身のレンズのゆがみのほうにピントが合うようになっていく。

 例えば「わたし」は、自分の記憶の中にある好ましくて安全な存在を次々と「むらさきのスカートの女」の姿に重ね合わせる一方、決して彼女を本名で呼ぼうとしないし、実際には彼女が穿(は)いているスカートの色さえ目に入っていない。いわば「むらさきのスカートの女」とは、「わたし」の偏見や願望によって編まれた代物であると同時に、周囲の人びとの視界から弾き出されている自身の鏡像なのだ。

 腹を抱えて読む人もいれば、背筋が凍ったという人、胸が締めつけられたという人もいる。いずれにせよ、その姿は「わたし」を通じて全てこちら側へと跳ね返る。実に鮮やかな物語だ。(朝日新聞出版・1300円+税)

 評・倉本さおり(書評家)

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