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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第3章 維新回天の原動力(3)思いは松下村塾でつながれた

 松陰はいつ、どのように正成を知ったのか。

 松陰は嘉永3(1850)年8月20日、長州藩主、毛利敬親(たかちか)の御前会議で山鹿素行(やまがそこう)の「武教全書 守城」を数え21歳で講義した際、「勝敗は兵家の常なれば、楠公の如き名将にても、時の勢にては湊川の討死もあるものなり」と、すでに正成の名前を挙げている。一坂氏は毛利家と正成の関係をこう説明する。

 「毛利家の先祖は大江家。正成が兵法を習ったのが大江時親(ときちか)。毛利家の先祖の弟子が正成となる。だから、長州では古くから正成のことは知られていた」

 松陰は安政6(1859)年10月25日から遺書である『留魂(りゅうこん)録』にとりかかり、26日夕刻に書き終え、翌27日処刑された。『留魂録』は〈七たびも生きかへりつつ夷(えびす)をぞ攘(はら)はんこころ吾れ忘れめや〉で締めている。松陰は最期まで、正成とわが身を重ねていた。

 ■吉田松陰

 長州藩士、杉百合之助の次男として生まれる。幼い頃、急死した叔父、吉田大助の後を継ぎ、後に藩の兵学師範に。嘉永3(1850)年から諸国を遊学、洋学や砲術、蘭学を学ぶ。ペリー来航を機に尊王攘夷に目覚め、安政元(1854)年、密航を図ったが失敗、投獄された。

 この頃から生涯21回の猛心を発しようと「二十一回猛士」の別号を用いる。出獄後は萩に幽閉され、松下村塾を開く。「草莽崛起(そうもうくっき)(一般大衆よ立ち上がれ)」や「至誠留魂(しせいりゅうこん)(真心をもってことにあたれば、自(おのずか)ら志を継ぐ者が現れる)」の思想は広く浸透、多くの尊攘志士を育てた。

 日米修好通商条約調印に反対し、老中暗殺を企て投獄、安政の大獄で安政6(1859)年、数え30歳で獄中死した。

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