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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第3章 維新回天の原動力(3)思いは松下村塾でつながれた

吉田松陰(松陰神社提供)。松陰は自らを楠木正成に重ねていた
吉田松陰(松陰神社提供)。松陰は自らを楠木正成に重ねていた
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 松陰が初めて、現在の湊川神社(神戸市中央区)にある正成の墓を詣でたのは江戸遊学途中の嘉永4(1851)年3月18日、数え22歳のときだった。その後、公式には3回参拝しているが、安政2(1855)年秋ごろ、木原にこの書を頼み、翌3年の年明け、木原から受け取ると、4月に『七生説』を書き上げた。

 『七生説』とは正成への思いをつづった書物だ。この中で〈余嘗(かつ)て東に遊び三たび湊川を経、楠公(なんこう)の墓を拝し、涕涙(ているい)禁ぜず(私はかつて湊川神社にある正成の墓を参ったとき、涙が止まらなかった)〉と心酔のさまを打ち明ける。

 当時、開国の波が押し寄せていた。ついに幕府は、孝明天皇の勅命を得ずに安政5(1858)年、日米修好通商条約を締結する。

 孝明天皇は、列強の侵略につながる可能性がある開国は日本の真の独立につながらないと考え、通商条約に反対していた。松陰は天皇を据えた独立国家を目指す攘夷(じょうい)論者だ。目的は同じだった。

 萩博物館の一坂太郎・特別学芸員は「松陰は自身を正成に、孝明天皇を正成が仕えた後醍醐(ごだいご)天皇に置き換えた」とみる。松陰も正成も、大きな目的のためには私心を捨てた。

 「松陰は正成の思いを十分に理解できた。自分を正成に重ねていたから、墓前で涙が止まらなくなったのだろう」

 死生観も引き継いだ。『七生説』には〈…未だ嘗て死せざるなり。是れより其の後、忠孝節義の人、楠公を観(み)て興起(こうき)せざる者なければ、則ち楠公の後、復(ま)た楠公を生ずる者、固(もと)より計(はか)り数ふべからざるなり〉とある。正成は死んでいない。正成亡き後も、志を継ぐ忠孝節義の人は正成の忠節を知って奮い立ち、その都度、正成は復活しているのだ、という意だ。

 一坂氏は「松陰は、肉体は滅んでも大きな志は生き続けるという正成の死生観を受け止め、自分と正成の心は時空を超えて通じていると信じていた。辞世の句『身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留(とど)め置かまし 大和魂』も、楠公精神に重ねると理解できる」と説明する。

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