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【本郷和人の日本史ナナメ読み】困った講演依頼(下)牧野氏転封「玉突き人事」の結果?

 牧野氏は関ケ原の戦いにも従軍し、1616年に越後・長峰城主5万石、すぐに同国長岡6万石に加増転封され、大胡を離れます。で、江戸時代を通じて長岡の譜代大名として続き、有名な幕末の北越戦争に至るわけです。牧野氏を失った大胡は、このあと大名の本拠となることはなく、城も廃棄されました。

 さて問題は、このネタでどうやって講演を乗り切るか、です。全然聞かせどころがないじゃないか! 頭を抱えたわけですが、何とか一つネタをひねりだしました。それが酒井氏との関係です。このコラムでずっと前に取り上げましたが、家康は酒井忠次を憎んでいた、という話があります。家康の長男で岡崎を任されていた松平信康が武田家との内通を疑われ、織田信長に自害を命じられた。そのとき信長のもとに出向いていた忠次は、信長からこの処置への意見を求められた。本当なら「信康さまに限ってそのようなことは!」と熱弁を振るうはずが、忠次は何も弁明をしなかった。それを家康はずっと根に持っていた。

 関東に入ったときに酒井家次(既に隠居していた忠次の嫡子(ちゃくし))は下総・臼井3万7千石しか与えられなかった。井伊直政12万石、本多忠勝と榊原康政の10万石に比べ、これは明らかに少ない。忠次が機会を捉えて「私のせがれにもう少し領地をください」と言ったところ、家康は冷たく「おまえもわが子はかわいいか」と吐き捨てた、という。

 このエピソードの根拠はさほど良質な史料ではありません。ですので現在、「まあそんな話もあるよね」くらいで、学界ではまともに相手にされていないんじゃないのかな。けれども酒井家の領地の変遷を見ると、一概にヨタ話とも思えなくなるのです。というのは、同家は関ケ原の後、井伊直政が去った高崎に5万石で入る。それで1616年に越後・高田城10万石の加増を受ける。この直前には家康が駿府で亡くなっています。家康がいなくなってはじめて、徳川四天王の筆頭(これも後世の呼び名ですが)にふさわしい待遇を受けているのです。やっぱり家康に嫌われていた?

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