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【本郷和人の日本史ナナメ読み】困った講演依頼(下)牧野氏転封「玉突き人事」の結果?

華陽院像(模本、東大史料編纂所蔵)
華陽院像(模本、東大史料編纂所蔵)
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 三河牛久保の城主として周辺を治めていた牧野氏は、今川義元の勢力が三河へ伸長してくると、その勢力下に入りました。桶狭間で義元が戦死し、徳川家康(当時は松平元康)が岡崎で自立すると、はじめはこれと戦いますが、やがて家臣の列に連なります。

 三河を勢力範囲とした頃の徳川家の軍制は、酒井忠次と石川数正が家臣たちを統率していた。東三河の衆が酒井の下に配置され、西三河のリーダーが石川でした。牧野氏の当主の康成は酒井忠次の指令を受ける立場になりました。それだけではなく、忠次の娘を康成は嫁に迎えています。彼女のお母さん(つまり忠次の妻)、後に臼井殿と呼ばれる女性は松平清康の子。清康は家康の祖父ですので、臼井殿は家康のおばさん。康成の妻は家康の従妹(いとこ)になります。広くいうと牧野氏は徳川の縁戚に連なったわけで、それだけ牧野氏は重視されていた、ということになるのだと思います。

 さて、1590年に徳川家が関東に移ると、いよいよ大胡城が出てくる。牧野康成は上野(こうずけ)の大胡(おおご)城を与えられ、2万石を領することになります。動員兵力でいえば500人くらい。うーん、微妙な数字だな。牧野氏が入る以前の大胡にはさほどのドラマはありませんし、地図を広げてみても交通の要衝というわけでもありません(現在、大胡に行こうとすると、前橋からタクシーに乗ることをすすめられます。これがまた不便この上ない道。片側1車線なのにそれなりに混んでいて、のろのろのろのろ30分かかる。講演の時間には十分間に合うはずだけれど、ヤキモキしました)。

 大胡城に入った牧野氏については、何もドラマがありません。康成の娘が家康の養女となって、あの福島正則の後室として嫁いでいるくらいです。正則は外様大名の中でも幕府が一番気を遣(つか)ったであろう人物ですから、彼との縁組に娘が起用されたということは、牧野氏は家康・秀忠にしっかりと評価されていたということになるのでしょう。

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