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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第3章 維新回天の原動力(2)黄門さまが伝えた尊王思想

 〈身皇国に生れて、皇国の皇国たる所以(ゆえん)を知らざれば、何を以てか天地に立たん(日本に生まれながら、日本という国家の本質を知らなくてどうして生きていけようか)〉

 水戸史学会事務局長で植草学園短期大の但野(ただの)正弘名誉教授は「会沢は水戸学の大家でありながら、22歳の松陰とメモを取りながら話したといわれています。どんな相手からも学ぼうという水戸学の姿勢から、歴史の本質を学んだのだと思います」と話す。

 長州に帰った松陰は松下村塾に、正成の墓碑に記された朱舜水の賛文(さんぶん)を掲げ、久坂玄瑞、高杉晋作ら、維新の志士となる門下生に正成の忠義を説いたという。

 光圀が興した水戸学、そして湊川神社に建てた正成の墓碑は、正成の思いを歴史を超えて志士たちに受け継ぐ役割を果たしたのである。=毎週金曜掲載

 ■徳川光圀

 江戸幕府を開いた徳川家康の孫として寛永5(1628)年に生まれた。2代水戸藩主として、生活苦の農民を思いやる仁愛の政治を行い、給水難解消のために水道を敷設したり、和紙を専売にして税収を上げたりするなど、数々の善政で領民に愛された。諡(おくりな)は義公(ぎこう)で、地元では「ぎこうさん」として親しまれている。

 正成の墓碑を建立したのは元禄5(1692)年8月で、『大日本史』の編纂に携わっていた家臣の佐々介三郎宗淳(むねきよ)が現地で指揮を執った。『大日本史』の史料集めで全国を旅した宗淳は講談「水戸黄門漫遊記」や時代劇ドラマ「水戸黄門」での「助さん」のモデルとされるが、光圀自身は関東から出たことはなかったとされる。

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