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【歴史の交差点】現代の「よう言録」を書くなら 武蔵野大特任教授・山内昌之

 徳川綱吉を5代将軍に押し上げた大老・堀田正俊(まさとし)が貞享(じょうきょう)元(1684)年に若年寄・稲葉正休(まさやす)に斬殺された事件は、徳川政治史最大のスキャンダルかもしれない。

 歴史学者、小川和也氏の『儒学殺人事件-堀田正俊と徳川綱吉』は、この殿中殺人に綱吉の意志が働いていたという説を実証した書物である。正俊は綱吉の度が過ぎる犬愛護、能役者の幕臣登用、犬保護に落ち度のあった近臣の処分などの不当性について諫言(かんげん)を繰り返していた。

 かねてこれを疎ましく思っていた綱吉は、大老辞職を促すが正俊は肯(がえ)んじない。そこで正俊の親戚(しんせき)の正休を使い引退を促したが、聞く耳を持たなかった。結果として正俊は斬られたというのだ。背景には正俊の死後本格化する「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」をめぐる政策的不一致が潜んでいた可能性も否定できない。

 さて、その正俊が綱吉を称揚した『●言録(ようげんろく)』という書物がある。『続々群書類従(ぐんしょるいじゅう)』(第十三)に入っているので、最近ようやく読む機会を得た。●言とは、「包み隠さず公言する」という意味である。名君録ともいえる本書には、2人の不和を思わせるものは少ない。むしろ正俊は、綱吉の英主たる所以(ゆえん)を指摘してやまない。

 正俊はある日、道端で泣いている2人の浮浪児を見つけて救おうとしたが思いとどまった。大老たる自分の職務は「天下の政」で、2児を救うのは「小恵」だからである。しかし、忍びない気持ちが残ったので後から家臣を送り、食物を与えた。

 翌日、これを聞いた綱吉は、「是(これ)汝の惑いなり」、仁の心(人間愛)を発揮するには事の大小は関係ないと述べた。「日月は照らさざる所なし。繊芥(せんかい)の微(ちりのようにどんな小さなもの)みなその光を受く」

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