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【話の肖像画】マラソンランナー・君原健二(78)(7)「なんてかわいそうな英雄」

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君原健二さん。北九州市の自宅で
君原健二さん。北九州市の自宅で

 〈東京五輪のマラソン銅メダリスト、円谷幸吉はメキシコ五輪が開催される昭和43年1月9日、自衛隊体育学校宿舎で自殺した。

 「父上様、母上様、三日とろろ美味しうございました」で始まる遺書には「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」とあった〉

 当日は北九州にいて、陸上部の激励会があったのですが、記者の方から電話で連絡を受けて知りました。とにかく、悔しかった。五輪をともに戦った戦友のような思いもあり、同学年の親しみもありました。悔しくて歯がゆくて、グラウンドに出て、がむしゃらに走った覚えがあります。

 円谷さんはとても真面目な方でした。特に自衛官として、国を防衛するという職務に対する強い責任感を持っていました。その責任感が競技者円谷にも移行していたのだと思います。東京五輪では国立競技場の中で国民の面前で抜かれてしまい、国民に申し訳ないことをした。だから次のメキシコでもう一度メダルを取るんだ。それは国民との約束だと、東京五輪を終えてリフレッシュすることもなく、すぐに次の目標に向けて走り出していた。

 私の場合は、もうオリンピックなんていやだ、と競技から離れていたわけですから対照的です。そして私は結婚しましたが、円谷さんは結婚できなかった。東京五輪前からお付き合いされていた方と結婚の約束をし、ご両親もコーチも賛成していたのに、上官から「大事なメキシコ五輪を前に」と反対され、破談になったそうです。

 私は円谷さんの銅メダルはチーム円谷のたまものと思っていました。信頼するコーチや2人の練習パートナーとの間はいつも和やかで、明るい会話が聞こえていました。しかし結婚に賛成したコーチも練習パートナーも異動させられ、円谷さんは一人になってしまった。孤独だったのだと思います。

 遺書には円谷さんの家族一人ひとりに対する思い、愛情があふれていました。円谷さんは強い人で、英雄でしたから、周囲に彼を救える人がいなかったのだと思います。「そんなに競技にこだわることはないぞ」と円谷さんにいうことができたのは、同学年で東京五輪後は勝手気ままに走っていた、私だったのかもしれません。もっと杯を傾け、話をしていればと悔やんでも悔やみきれません。メキシコ五輪の2年前、訓練で久留米に来ると彼から手紙をもらいました。私は会いに行きませんでした。なぜ行かなかったのか。私の冷たさでしょうか。

 〈悲報当日の日記もある。

 「なんてかわいそうな英雄だろう。オリンピックの民族の英雄といえども個人だ。民族の期待に応えようが応えまいがどうでもよい。自分が競争したいから選ばれたのだから、勝手に競争すればよいのだ。彼の死は、今のゆがんだスポーツのあり方に大きな波紋を投げるであろうが、ただすことはできないだろう」

 慨嘆と怒りの記述であり、その予言は悲しいかな、今も生きている〉(聞き手 別府育郎)

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