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【話の肖像画】マラソンランナー・君原健二(78)(6)

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東京五輪の閉会式では各国選手が自由気ままに行進した。「電光掲示板にメキシコで会いましょう」の文字が見える=昭和39年10月24日、国立競技場
東京五輪の閉会式では各国選手が自由気ままに行進した。「電光掲示板にメキシコで会いましょう」の文字が見える=昭和39年10月24日、国立競技場

 ■突然の引退と競技復帰

 〈昭和39年10月24日、東京五輪は閉幕した。国立競技場に競技で揚げた日の丸は、マラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉によるものだけだった。閉会式では各国の選手らが一団となって入場してきた。肩を組む者、記念撮影に忙しい選手、輪になって踊り出す関係者。その夜も、君原健二は走らされることになる〉

 閉会式の後に新宿御苑でパーティーがありました。お酒も入り、外国選手に私の帽子を取られたんです。大事な記念品ですから一生懸命走って追いかけ、取り戻すことができました。

 北九州に戻ってすぐに、八幡製鉄のコーチだった高橋進先生に陸上競技部の退部届を出しました。五輪選手としていい成績をあげる責任や応援のプレッシャーが辛かったことを考えると、もうオリンピックなんていやだ、競技をやめたい、と思いました。他の人は皆、仕事をしながら練習しているのにマラソン選手だけはセミプロになっている。アマチュアリズムに反しており、価値がないとも思っていました。

 〈君原を競技者として復帰させたのは、「マラソン博士」とも「策士」とも呼ばれたコーチの高橋である〉

 高橋は東京高等師範学校の出身で、金栗四三先生の後輩です。だから私は金栗先生の孫弟子にあたります。高橋との出会いがなければ、私は一度もオリンピックに出られなかったと思います。東京五輪を終えて1年間は競技に参加しなかったのですが、高橋から「次の五輪はメキシコで行われるため、高地でスポーツをすると体にどういう影響があるか調査団を派遣する。そのモルモットとして参加しないか」と誘われたのです。モルモットでメキシコに行けるなんて、こんなうれしいことはありません。

 1カ月間メキシコで合宿し、帰国後はプレッシャーのかからない小さな大会から少しずつ走り出しました。復帰後初の大きなレース、41年の別府大分マラソンで3位に入り、その年のボストンマラソンに派遣されました。実はその1カ月前に、五輪前から文通していた佐賀県の女性と、高橋の仲人で結婚しました。結婚したから走れなかったと笑われる成績だけは残したくないという気持ちでしたが、思いがけずボストンで優勝してしまいました。その後もメキシコへの意欲は湧かなかったのですが、高橋は新婚生活が落ち着くのをじっと待って「青春時代にしかできないことは青春時代にやっておかなければならない」「肉体の限界は年老いてから極めることはできない」と繰り返すのです。私は「東京五輪で限界は極めました。満足です」と断ったのですが、熱い説得に根負けし、競技者としてメキシコを目指すことになりました。

 〈復帰した君原に悲報が届く。盟友、円谷幸吉の自死である〉(聞き手 別府育郎)

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