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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第2章 時代の先駆者が伝えるもの(11)

 極めて難解だが、兵法研究家の家村和幸氏によると、太古の世界を『陰陽分かれず混沌鶏子(けいし)のごとし』と記した日本書紀を念頭に、「日本における『武』は、鳥の卵のように混沌で無秩序だった世界の始まりを、天地に分けて秩序づけた。日本の武とは相手を倒すだけでなく、何かを生み出す万物の根元で、清らかにして明朗なる道である」という意味だという。

 『闘戦経』には、平時は文で、動乱は武で鎮める「治世の法」について説く記述もある。大きく物事をとらえ、大局的な心構えを示した書といえる。この書で学んだ正成について、竹鼻氏は「目の前の戦いだけでなく、どうすれば治世の法を実現できるか、を常に考えていた。この姿勢が天皇に献策する際の支柱になっていた」と話す。

 正成の天皇への献策で最も驚かされるのが、足利尊氏との和睦を勧める場面だ。建武3(1336)年1月の京合戦で官軍に敗れた尊氏は当時、九州まで敗走していた。『梅松論(ばいしょうろん)』はこう記す。

 〈正成奏聞(そうもん)して曰(いわく)、義貞を誅伐(ちゅうばつ)せられて、尊氏卿(きょう)をめしかへされて、君臣和睦候へかし。御使におひては正成仕らんと申上たり〉

 尊氏と不仲な味方の新田義貞を処罰し、尊氏を召し返して和睦してほしい。自分はその使者となる、と上奏したのだ。

 当然、天皇を取り巻く公家たちは却下した。しかし、正成の本意は、敗れても人望の厚い尊氏を採用することが、その後の治世のためになるという判断だった。大義のために何をすべきかを常に考え、機をとらえては発信する姿勢を崩していない。

 相手が天皇であろうと、治世のために最善の策を上奏する正成は、一族郎党の利を最優先するこの時代の武将にあっては異彩を放っていた。

 ■矢伏(やぶせ)観音

 大阪府河内長野市大矢船北町にある観音堂で、本尊は石像十一面観音。観音堂の横に立つ矢伏(やぶせ)観音由来記によると、正成が多聞丸と名乗っていた少年期、同市寺元の観心寺で修行していた正成は、約8キロ離れた同市加賀田に隠棲していた兵法家、大江時親(ときちか)のもとに毎日通い、『闘戦経』や『孫子』など兵学を学んだ。その通学の途中、必ず観音にお参りし、学問成就を祈っていたとされる。

 由来記などによると、当時、楠木氏と敵対していた八尾氏が放った刺客が観音堂の裏山で待ち伏せし、お参りしていた正成を狙って矢を放った。が、一陣の風で観音堂の扉が開いて矢が外れ、正成は難を逃れた。この伝承から「矢伏観音」と呼ばれる。

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