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【本郷和人の日本史ナナメ読み】天皇のお名前(下)「大塔宮護良親王」は何と読む?

 なお一応の原則としては、俗人の皇子として親王宣下を受けたあとに出家した方を「入道親王」、出家した後に親王宣下を受けた方を「法親王」と呼びます。たとえば後光厳天皇の第5皇子は俗名を煕永(よしなが)親王。仁和寺に入って永助(えいじょ)入道親王となりました。ただ、この方の日記を「永助法親王記」というように、これは一応の原則にすぎませんのでご用心。

 南北朝の皇子でスーパースターと言えば、「大塔宮護良親王(1308~35年)」をおいて、他にはいません。この方は後醍醐天皇の皇子です。幼くして尊雲法親王として天台宗三門跡の一つである梶井門跡(三千院)に入りました。現在の京都市左京区岡崎にあった法勝寺九重塔(大塔)周辺に居住していたので大塔の宮、と呼ばれました。正中2(1325)年には門跡を継承。その後、天台座主にもなりましたが、『太平記』によると、ひたすら武芸を好む前代未聞の座主だったそうです。

 元弘元(1331)年、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の元弘の乱を起こすと、還俗(げんぞく)(僧侶から俗人に戻ること)して戦いに加わりました。天皇は捕縛されて隠岐島に流されましたが、親王は潜伏してゲリラ戦を展開します。令旨(りょうじ)(親王の命令書)を発して反幕府軍を組織し、赤松則祐(のち播磨周辺の有力守護大名に)、村上義光(よしてる)(転戦中に戦死)らとともに十津川、吉野、高野山など各地を転戦して粘り強く幕府軍と戦い続けました。楠木正成や赤松円心といった武将たちに指令を出していたのも親王だったでしょう。倒幕はやがて成功するわけですが、功労第一は親王だったと評価できます。

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