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【本郷和人の日本史ナナメ読み】天皇のお名前(下)「大塔宮護良親王」は何と読む?

後醍醐天皇宸影(模本、東大史料編纂所蔵)
後醍醐天皇宸影(模本、東大史料編纂所蔵)
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 天皇のお名前で一番難しい後西天皇を解説したところで、諡号(しごう)・追号についてはネタ切れになってしまいました。それで今週は皇族の諱(いみな)、お名前について書いてみようと思います。

 京都と吉野に朝廷が並立していた南北朝時代。1392年に南北朝の合一が実現する前に一瞬だけ、天皇が一人になる、という事態が生じました。それが「正平(しょうへい)の一統」です。室町幕府のリーダーである足利尊氏と政治の責任者を務めていた弟の直義(ただよし)との対立は、やがて列島規模の戦乱、「観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)」を引き起こしました。尊氏は直義追討のため正平6・観応2(1351)年10月に南朝と和議を結び、関東に向けて出陣しました。このとき、北朝の崇光天皇と皇太子の直仁(なおひと)親王が廃され、天皇は南朝の後村上天皇一人に、年号も南朝の正平のみが用いられることになったのです。

 翌年、北畠親房(ちかふさ)に率いられた南朝の軍勢は京都を制圧し、正平一統は破綻しました。京都を守備していた尊氏の子、義詮(よしあきら)はすぐ態勢を立て直して京都を奪還しますが、このとき吉野に退却していく親房らは北朝の光厳上皇、光明上皇、退位して間もない崇光上皇、それに直仁親王を吉野に連れ去ったのです。

 北朝としてはすぐに天皇を立てたい。ところが皇太子はいない。どうするか。白羽の矢が立ったのは光厳上皇の第2皇子で、崇光上皇の弟にあたる二宮でした。この方はお坊さんになる予定だったので、俗人の皇子としての諱がなかった。急ぎ成人の儀を行って弥仁(いやひと)王を名乗り、そのまま天皇に立ったのです。これが後光厳天皇でした。

 現在は皇室典範に定めがあり、天皇の嫡出の男子、およびその男子の嫡出の男子(皇孫ですね)である方を「親王」と称します。また天皇からみて直系で嫡出、3親等以遠の男子を「王」といいます。王も敬称は殿下です。明治より前はそうではなかった。皇族の男子は「○○王」。その中で親王宣下を受けた方のみが「○○親王」。弥仁王は親王を経ずに天皇に即位したわけですね。

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