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【お城探偵】千田嘉博 金箔瓦出土の駿府城 「秀吉の城」説を考える

駿府城で出土した瓦。へこんだ部分に金箔がほどこされている=平成30年10月 (石原颯撮影)
駿府城で出土した瓦。へこんだ部分に金箔がほどこされている=平成30年10月 (石原颯撮影)
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 天正10(1582)年に起きた「本能寺の変」の後、羽柴(のちの豊臣)秀吉は織田信長の後継者として歩みはじめた。徳川家康は秀吉の家臣になるのを拒んだが、秀吉が同13(1585)年に関白、翌年には正親町(おおぎまち)天皇から豊臣の姓を賜(たまわ)って名実ともに天下人となったのを受けて、ついに家臣になった。

 秀吉は家康を重視し、つぎつぎと官位を上げ、羽柴姓も与えた。家康も秀吉の信任に応え、同18(1590)年には豊臣軍の主力として関東の北条領へ攻め込んだ(小田原の戦い)。そしてこの戦いの後、家康は北条氏の旧領に転封し、100万石の加増を得た。家康は信長時代から東を志向した大名だったから、この転封を「左遷」と考える必要はないと思う。

 近年の城の研究では、秀吉は家康の転封に合わせ、自分の息がかかった大名を家康領の周囲に配置し、秀吉の権威を示すため、先端を金箔(きんぱく)で装飾した瓦の城郭網を整えたとする説がある。いうなれば「金箔瓦の城による家康包囲網説」である。

 そもそも家康は家臣を引き連れて関東に移っており、家康の領地の周囲に配置されたのは、秀吉政権に従うほかの大名だったことになる。こうした大名たちに秀吉の息がかかっていたのは当たり前で、秀吉が家康の反乱に備えて配置したとまで言うことには無理がある。

 そして、家康は信長のときから金箔瓦を見知っていたので、それを見て恐れたとは思えない。つまり、金箔瓦の城で家康を包囲したという説は、のちに家康が豊臣家と敵対し、滅ぼした結果から着想した解釈に過ぎないと思う。それぞれの大名が金箔瓦で権威を見せた相手は、家康ではなく領地の住民だった。

 さて、金箔瓦の使用は同4(1576)年から信長が築いた安土(あづち)城(滋賀県近江八幡市)で本格的にはじまった。安土城の金箔瓦は、軒平瓦や軒丸瓦の紋様の間の凹(へこ)んだ部分に金箔を貼り付けた。これに対し、秀吉の金箔瓦は、瓦の紋様が突出した部分に金箔を施した。つまり、信長スタイルは瓦の凹部に、秀吉スタイルは瓦の凸部に金箔を貼るのが原則だった。

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