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【3つの「謎」~百舌鳥・古市古墳群】(中)「倭の五王」は誰なのか

宮内庁と堺市による仁徳天皇陵(大山古墳)合同調査。仁徳天皇陵に入る宮内庁職員ら=2018年10月13日、堺市
宮内庁と堺市による仁徳天皇陵(大山古墳)合同調査。仁徳天皇陵に入る宮内庁職員ら=2018年10月13日、堺市

 百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)に巨大古墳が築かれた5世紀は、「倭(わ)(日本)の五王の世紀」ともいわれる。情勢が不安定な朝鮮半島諸国との関係が緊迫するなかで、ヤマト政権は中国南部の強国・宋(そう)に、後ろ盾を求めた。宋の歴史書(宋書(そうじょ))には「讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)」を名乗る5人の王が、使節を派遣してきたと記している。

 宋書はほぼ同時代に書かれた書物で、史実性も高い。遣使は讃による西暦421年を筆頭に、478年の武まで最低10度にわたって繰り返された。

 「遣使の利点は、大きく2つありました。中国王朝の権威を借りて国内支配の維持・安定を図るとともに、朝鮮半島の国々との戦争への体制づくりを進めてゆくためです」

 著書「倭の五王」(山川出版社)のある森公章(きみゆき)・東洋大教授(日本古代史)はこう話す。

 とくに大王(天皇)の代替わりにあたっては、必ず遣使したようだ。先代を古墳に葬り、大王位継承の儀式を済ませたことを告げ、宋王朝から日本の支配者(倭国王)などの地位を認めてもらっている。

 当時、朝鮮半島の国々で最強だったのは、北部の高句麗(こうくり)。逆に南西部を治める百済(くだら)は、高句麗の侵攻に悩まされていた。このため百済は、海を隔てた日本に救いを求めた。むろん、見返りを用意しての要請だった。このころ日本に伝わってきた仏教などの文化や、先進技術がそれだったと考えられている。

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