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【中西進さんと行く 万葉集最果ての歌】長崎・対馬 哀切にじむ国境の海

 国道から脇道に入っていくと、小高い丘から浅茅湾が見下ろせた。湾の向こう側は遣唐使らが大陸へと漕(こ)ぎ出した竹敷の海辺だ。

 《竹敷(たかしき)の玉藻(たまも)靡(なび)かし漕ぎ出なむ君が御船(みふね)を何時(いつ)とか待たむ》 巻15-3705

 (竹敷の玉藻を靡かせて漕ぎ出してしまうあなたの船のお帰りをいつと思ってお待ちしましょう)

 詠み手は玉調出身と思われる遊女。名は玉槻(たまつき)、彼女は才たけた、文化的素養のある遊女だったのではと中西さんは想像する。当時、険悪だった新羅との関係を構築するという困難な任務を負った大使の阿倍継麻呂(あべのつぐまろ)らは、しばらくここに逗留(とうりゅう)。いよいよ船出というときに贈った惜別の歌だ。「交渉が成功するか分からない決死の船出。彼女もそれを知っていて、純粋な気持ちを歌に託したのでしょう」と中西さん。

 結局、新羅との交渉は失敗に終わり、継麻呂は対馬で客死した。「そんな未来を知ってこの歌を読むと、いっそうあわれが深い。哀切きわまりないエレジーを歌った眉目(みめ)麗しき遊女がこの地にいたということですね」

防人の魂慰める社

 浅茅湾を船で巡った。名産の真珠養殖のいかだが浮かぶ。「竹敷の-」の歌を口ずさんでいた船頭が、北西の水平線を指さして、「空気の澄んだ冬場には、海の向こうに朝鮮半島が見えることがあります」という。韓国までわずか49・5キロだ。

 浅茅湾の南側に突き出た城山(じょうやま)には、飛鳥時代に築かれた金田城(かねだじょう)の石垣が残っている。663年、白村江(はくそんこう)の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗した朝廷は、国土防衛の最前線基地として667年に金田城を築き、防人(さきもり)を配置した。

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