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【話の肖像画】チベット難民の医師・西蔵ツワン(67)(8)来日、篤志家との出会い

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1965年12月、来日した翌日に旧毛呂病院(現埼玉医科大)職員寮の前で。後列左から2番目がツワンさん、3番目が留学に尽力してくれた木村肥佐生さん
1965年12月、来日した翌日に旧毛呂病院(現埼玉医科大)職員寮の前で。後列左から2番目がツワンさん、3番目が留学に尽力してくれた木村肥佐生さん

 <日本留学が決まってから渡航するまでの期間は3カ月弱。慌ただしく準備をして1965年12月、西蔵さんら留学生5人はインド・ダージリンにあるチベット難民キャンプから、カルカッタ(現コルカタ)経由で東京・羽田空港に到着した>

 初めての高速道路に興奮し、車の窓から見える高層ビルの風景に「さすが先進国だな」と感心していました。ひょっとしたら都会の暮らしができるのかと期待しましたが、車はなかなか止まらない。そのうちに日は暮れて、山道に入って、街灯も減っていき、辺りは真っ暗になりました。

 到着したのは、私たちを受け入れてくださった丸木清美先生が院長をしていた、埼玉県日高市に隣接する毛呂山町にあった旧毛呂病院(現埼玉医科大)の職員寮です。

 丸木先生はご家族と一緒に待っていてくれて、うどんや魚、お茶をごちそうになりました。夜も遅かったので、そのまま風呂に入り、畳の部屋の布団で寝ました。

 翌朝、5人で寮の内部や周囲を歩いてみると、いたるところに漢字で書かれたチラシや張り紙がある。私は幼少期、中国支配下のチベットで反日映画を見せられたことがあったので日本人が漢字を使うことを知っていましたが、5人のなかには「まさか中国へ来てしまったんじゃないよな」と心配する者もありました。同じアジアの国でも、外国の文化や風習は思っている以上に知らないものですね。

 〈西蔵さんたちはチベット亡命政府の留学生という名目で来日したが、実現には日本の篤志家の役割が大きかった〉

 法王(ダライ・ラマ14世)様は「チベットの将来のために教育が大事だ」と考えられて、インド国内の各地に政府の協力を得て学校を作っていました。国際的にもスイスを中心にチベットの子供を受け入れる国が現れ、そうした流れの中で、日本では木村肥佐生先生が尽力してくださいました。

 木村先生は先の大戦末期に諜報活動のためモンゴルからラマ僧に変装してチベットに入ったという人です。日本政府にも声をかけたそうですが、止めはしないものの乗り気でもなかったらしく、一個人として協力されたのが丸木先生でした。難民キャンプの方で私たち5人を選んでくださったのは法王様の兄の妻、ミセス・ドンドゥップです。これらの方々の力で、私たちは大きなチャンスを与えられ、同時に中国に支配されたチベットの将来に役立つ人材になるという使命を帯びるようになりました。

 こうして丸木先生の病院の寮での合宿生活が始まります。私たちが寝起きする6畳2間の隣の部屋に病院職員の堀口一夫さんが住み込み、つきっきりで世話をしてくれました。最初の、そして最大の壁になったのが日本語です。インドにいたときに勉強する余裕はなかったので、ぶっつけ本番でした。私は当時13歳でしたが、これでは地元の中学校にも通えない。新学年が始まる翌66年春までの4カ月間で小学生の国語の教科書をマスターすべく、猛特訓が始まりました。(聞き手 平田雄介)

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