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【3つの「謎」百舌鳥・古市古墳群】(上)王陵、なぜ奈良から大阪に

 ヤマト政権の王陵(おうりょう)がなぜ大阪へ移ったのか。「奈良に用地がなくなった」「大阪に造る理由が生じた」「権力者の交代があった」-など数々の見解がある。戦後の一時期には、大阪平野を本拠とした新政権の勃興を説く「河内王朝論」が脚光を集めた。

 だが同じような前方後円墳が造り続けられること、また歴代の都は奈良盆地に置かれるケースが多いことなどから、王朝交代説は成り立ちがたい。むしろ、この時代の政治情勢が大阪を選ばせた、と考えられるようになっている。

 つまり、4世紀後半から5世紀にかけ、倭(わ)(日本)にとって、朝鮮半島や中国との外交が重要な課題となったことが大きい。当時の日本列島は水田開発が進み、人口も増え続ける「高度成長期」。支えていたのは、鉄製の農具や工具の普及だった。

 鉄器はそれまでの石器に比べ、作業効率が飛躍的に向上する。ところが鉄は国内で産出せず、朝鮮半島から輸入するほかなかった。鉄を安定的に入手するためヤマト政権は朝鮮半島まで出向き、かの国々との複雑な抗争に巻き込まれていったのである。

 海外交渉の拠点となったのが、大阪湾沿岸だった。この地の重要性は急速に高まり、大陸への水運を担う豪族の地位も向上した。大阪湾岸の巨大古墳は、この地を行き来する人々に、政権の力の大きさを見せつけるモニュメントの役割も果たしたのだった。

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