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【話の肖像画】チベット難民の医師・西蔵ツワン(67)(4)

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中国の圧政に耐えかね、法王ダライ・ラマ14世の宮殿「ポタラ宮」に集まったチベットの女性たち。この後、法王はインドに亡命した =1959年3月17日、ラサ(AP)
中国の圧政に耐えかね、法王ダライ・ラマ14世の宮殿「ポタラ宮」に集まったチベットの女性たち。この後、法王はインドに亡命した =1959年3月17日、ラサ(AP)

■帰国の父と一家で亡命の旅

 〈中国のチベット支配に違和感を覚えることもあったが、学校では優等生。インドに出張したまま帰宅できなくなった父不在の家で、母、妹と暮らす毎日を1962年まで3年間続けた〉

 通っていた中国式の学校では、中国語や算数のほかに、今と違ってチベット語を習うことができました。勉強を頑張っていたので、教師から「大きくなったら北京に行けるね」と言われることもありました。中国共産党の指導下ではエリートコースですよね。ときに励ましてくれる教師に、「ダライ・ラマ14世は反逆者だ」と聞かされる毎日でしたから、いつのまにか人民解放軍に敬意を払うようになり、週末の野外映画は共産党の指導を受けた子供であることを示す赤いネッカチーフをして参加していました。すっかり洗脳されていたわけです。

 実際に北京に行った人たちは66~76年の文化大革命のときにチベット本土に戻り、破壊工作をしたそうですが、あのまま亡命していなかったら、私も同じ道を歩んでいたのかもしれません。

 〈転機は62年秋。ある日の朝、布団の中で起きると、懐かしい顔が目の前にあった。「ただいま」。父の突然の帰国は、一家の亡命の旅の始まりだった〉

 大喜びしながら朝ご飯を食べ、学校へ行ったのですが、母に「お父さんが家に帰ってきていることは先生に言わないでね」と念を押されました。チベットの役人をしていた父は、見つかればすぐ逮捕されてしまいますから。このとき既に両親は亡命すると決めていたのだと思います。

 とはいえ、一家族が忽然(こつぜん)と姿を消せば亡命とばれて追っ手が来てしまいます。長期間、家を空ける口実に使ったのが私のけがでした。この頃ちょうど、学校で縄跳びをしていたときに転んで左腕を骨折していたのです。ネパール国境付近に良い温泉があるので「湯治に行くことになった」と学校や周囲には伝え、1~2週間分の着替えと十分な食べ物を持って出発しました。父は目出し帽をかぶってロバ使いの従者に変装し、母がけがをした私と幼い妹を連れて湯治に行くという体裁を演出したのです。

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