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【話の肖像画】チベット難民の医師・西蔵ツワン(67)(2)豊かだったチベット時代

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唯一の家族写真(左上から)ツワンさん、妹のヤンチェンさん、父、カルチェンさん、母、チメさん(1965年ごろ、インド・ダージリンにて)
唯一の家族写真(左上から)ツワンさん、妹のヤンチェンさん、父、カルチェンさん、母、チメさん(1965年ごろ、インド・ダージリンにて)

 〈ネパール国境近くの、貿易が盛んな商業都市シガツェで、父、カルチェンさんと母、チメさん、妹のヤンチェンさんの4人家族で育った〉

 実家は貴族階級の名家などではなかったのですが、裕福な家庭でしたので、亡命する10歳までは何不自由なく育ててもらいました。母はいつも美しく着飾っていましたし、炊事や洗濯などは何人もいるお手伝いさんがすべてやってくれました。父は仕事で不在がちでしたが、私は優しい母とお手伝いさんに世話されて、妹と一緒に甘いお菓子を食べ、庭で楽しく遊び、幸せな時間を過ごすことができました。

 〈父はチベットの役人で、「塩の道」と呼ばれるチベットとネパールやインドを結ぶ交易路を統括する仕事をしていた〉

 父はもともとシガツェ郊外のタシロンボ寺で修行した学僧で、今でいう博士号を取得するほど熱心に勉強したそうです。

 かつてのチベットでは僧院が教育の場でした。中国支配への抵抗運動が武力鎮圧される「チベット蜂起」が起き、各地で僧院が破壊された1959年までは、チベット全土に6千以上の僧院があったといいます。

 ただ、僧院での生活は厳しく、共同生活を営みながら、早朝から深夜まで、院内の仕事を分担してこなし、あらゆる種類の宗教的儀礼を行い、独習もしなければならない。父は勉強は熱心にしたようですが、かなりやんちゃな性格で、僧院での生活は長続きしなかった。若い僧は当番で厨房(ちゅうぼう)の仕事、買い出し、食事や茶の給仕などを担当するのですが、井戸のない僧院から町中まで水をくみに行く仕事を割り当てられた父は、水の代わりに酒を買って持ち帰り、怒られたことがあったそうです。

 そんなわけで父は役人になったのですが、塩の道の統括というのは、チベットから大キャラバン(隊商)を組んで岩塩をネパールやインドに持っていく、その代わりにインドから米などの物資をチベットに持って帰ってくるというのが仕事です。

 面白い仕事だったのでしょう。シガツェを拠点に頻繁に出張し、インドでの活動拠点だった英国の植民地時代の雰囲気が今も残るダージリンやカリンポンから、蓄音機や英軍が使っていた銃の弾倉、ガスマスクなどを土産物として持ち帰り、家に飾っていました。

 西洋の文化に触れる機会の多かった父は、当時のチベット人社会の中ではハイカラな人でした。出張時には、第二次世界大戦や朝鮮戦争など世界情勢に関する情報も仕入れて上司に報告していたと聞いています。

 〈父は教育にも熱心だった〉

 僧院で学び、社会的地位を得る上での教育の重みを理解していたのでしょう。就学前の私に家庭教師をつけて、チベット文字を習わせました。チベットでは、きれいな字を書けると教養があるとみなされます。この時期に勉強の習慣を身につけてもらったことが、後々の日本留学につながったように思います。(聞き手 平田雄介)

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