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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第2章 時代の先駆者が伝えるもの(8)

家臣や領民から慕われた楠木正成。今もなおその人柄を敬慕する人が絶えない=大阪府河内長野市の観心寺(恵守乾撮影)
家臣や領民から慕われた楠木正成。今もなおその人柄を敬慕する人が絶えない=大阪府河内長野市の観心寺(恵守乾撮影)

 ■戦わずに勝つ 人心掌握の方法

 〈この乱出(い)で来て後(のち)、仁(じん)を知らぬ者は、朝恩(ちょうおん)を棄てて忽(たちま)ちに敵に属(しょく)し、勇(ゆう)を得ざる輩(ともがら)は、苟(いやしく)も死を遁(のが)れんとて却(かえ)つて刑戮(けいりく)に遭(あ)ふ。智なき者は、時の変を弁(わきま)へずして、自(みずか)ら迷ひ進み退く〉

 楠木正成(くすのき・まさしげ)が生きた時代の武士たちの実像を、『太平記』はこう表現する。

 時勢がめまぐるしく変転し、力を持つ者が次々と交代した激動の時代。多くの武士たちが状況に応じてその立場を変え、自らの生き残りを図ろうと奔走する中にあって、ひとたび受けた「朝恩」に報い、忠義を尽くした正成を『太平記』は「智仁勇の三徳」を兼ねた人物と評した。

 一貫して後醍醐(ごだいご)天皇の側に立ち、鎌倉幕府や足利尊氏(あしかが・たかうじ)らと戦い続けた正成だが、その一族郎党も強固な結束を誇り、主君への忠節を失わなかった点で共通している。

 正成が拠点としたのは現在の大阪府千早赤阪村周辺。千早城や上赤坂城、下赤坂城などをめぐり正成軍と鎌倉幕府軍が攻防を繰り広げ、幾度も戦場となった。

 「でも、戦いによって家臣団や領民が正成に恨みの声をあげた形跡はない。家臣や領民の心をつかんでいたことがうかがえます」

 千早赤阪村教育課の原田沙由未(さゆみ)主事はそう話す。

 近世初頭に成立したとされる『太平記』の注釈書『太平記評判秘伝理尽鈔(りじんしょう)』には家臣の大切さを説く正成の言葉が繰り返し登場し、その統率ぶりの一端を伝える。

 〈我は富みて郎従(ろうじゅう)に辛(から)き目を見する事有るべからず。郎従は我を頼み、我は郎従を頼みて君の御大事にも相ふ物ぞかし(中略)相構ゑて郎従共を能(よ)く扶助(ふじょ)せよ。此事肝要也。郎従にうとまれなば弓矢を取る事叶難し〉(自分だけ財産を持ち、家来をひどい目に遭わせるようなことはあってはならない。家来は自分を頼り、自分も家来を頼りにできてこそ主君の危難にも対応できる。必ず家来を大切にせよ。これが非常に大事だ。家来の心が離れたら戦はできない)

 正成は、他人の心を洞察する能力にたけていたようだ。その力は家臣団の統率のみならず軍略面でも遺憾なく発揮された。象徴的なのは、正成自身が「坂東一の弓矢取り」と評した鎌倉方の武将、宇都宮公綱(うつのみや・きんつな)との合戦だ。

 〈元弘(げんこう)三(1333)年一月二三日、宇都宮公綱、四天王寺に至り、大楠公の保塁を攻む〉

 湊川神社(神戸市)発行の『大楠公』は、こう記す。当時は幕府軍に敗れ姿をくらましていた正成が金剛山で再挙し、四天王寺(大阪市天王寺区)にまで進出していた時期にあたる。

 『太平記』によると合戦の経過はこうだ。京・六波羅から派遣した軍勢が正成軍に大敗し衝撃を受けた幕府は、公綱に正成討伐を命じた。公綱は決死の覚悟を固め、わずかな兵力ながら四天王寺周辺へと兵を進める。その様子を見て数に任せて一気に攻撃をかけるよう進言する家臣に対し、正成は次のように語り、正面から激突する戦を避けるよう諭した。

 〈合戦の勝負、必ずしも大勢(おおぜい)小勢(こぜい)に依(よ)らず、ただ士卒の志を一つにするとせざるとに依れり(中略)天下の事、全くこの一戦に依るべからず。行末(ゆくすえ)遥々(はるばる)の合戦に、多からぬ御方を初度(しょど)の戦に討たれなば、後日の戦ひに誰か力を合はせん〉

 前回の味方の敗戦を挽回しようと必死で戦うであろう公綱の心中を推し量った上で、正成は先々の重要な戦いを見越し、ここでは「戦はずして勝つ」戦法に出た。

 正成は一戦も交えずに陣を放棄して退却し、公綱に手柄を与える形を取った上で、その周囲を数に勝る自軍の兵で威圧。公綱軍を昼夜問わず緊張状態に陥れて疲弊させ、退却へと追い込んだ。

 「目先の勝敗にこだわらず、最終的に勝つためにどう行動するかを考えるのが正成の特徴。あえて敵に手柄を与えることで退却の口実にしやすくするなど、人の心の機微に通じた人物だったといえると思います」

 兵法研究家の家村和幸氏はそう話す。

 正成の生きた時代は、鎌倉時代初頭以来の「御恩と奉公」に象徴される主従関係が大きな変化にさらされた時期にあたっていた。

 「幕府のもとでは土地の拡大や生活の改善は望めないという武士や領民の思いを背景に、正成は新しい天皇中心の政権に命運をかけた。実際に行動に移し、倒幕を成し遂げた正成だからこそ、家臣や領民も『この人なら』とついていったのではないでしょうか」

 原田主事はそう推論する。

 巧みな戦術戦略を駆使し、人心の掌握にも心を砕いた正成。乱世にあって、その背中で家臣や領民を引っ張った姿は、部下をあずかる現代のリーダーたちにも参考となる部分があるのではないか。

 正成がこの世を去って700年近く。地元の人々の敬慕の念は今も変わることがない。=毎週金曜掲載

■太平記評判秘伝理尽鈔(りじんしょう)

 江戸時代初期、日蓮宗僧侶の大運院陽翁(だいうんいん・ようおう)がまとめたとされる太平記の注釈書。太平記の本文に対して政道や兵法の面から論評を加えた「評」、本文とは異なる逸話や秘話を紹介する「伝」からなる。戦国の世から時がたち、実戦の経験者が少なくなり始めた17世紀半ばごろから武士階級を中心に読まれるようになり、一般民衆にも広まった。近世の兵学者、山鹿素行(やまが・そこう)や、思想家の安藤昌益(あんどう・しょうえき)らも思想的影響を受けたとされ、近年再評価が進んでいる。

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