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【話の肖像画】作家・江上剛(65)(4)早世の兄姉…無事見送れた両親

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2歳ごろ、父の小畠晴次さんと自宅にて
2歳ごろ、父の小畠晴次さんと自宅にて

 〈昭和29年1月、兵庫県氷上郡山南町(さんなんちょう)(現丹波市)に生まれる。両親と兄、姉の5人家族だった〉

 生まれたのは、人よりも猪や鹿の方が多いような山間の村。60軒ぐらいの集落です。よく夢を見る子でした。空を飛ぶ夢とかね。今でも子供のときの夢で見た、空を飛んでいる感覚を覚えています。それと、正義感が人一倍強かった。昔の学校はいろんな子供がいて、いじめるやつもいっぱいいた。いじめっ子に「やめろ」というのはいつも僕でした。

 小学校や中学校で書いた作文が県で入選したことがありました。新聞に短歌を投稿して掲載されたことも。物を書いて賞品がもらえるのがうれしかった。高校では文芸部で同人誌に小説を書いていました。

 大正15年生まれの父は、少年兵として海軍に入り、広島に原爆が落ちたとき呉にいて、舟をこいで広島まで行き、遺体の処理をしたそうです。被爆手帳をもらえる資格がありましたが、本人はそういうことが嫌いで手帳はもらいませんでした。

 父は戦後、山からサカキやシキミの枝を切り、正月の門松を作って売るような商売をしていました。オート三輪に積んで大阪に売りに行くんです。集金してきたときは、座敷にお札が山のように積まれるんですが、給料などを支払うと、あっという間になくなってしまう。方々で借金をして大変だったようです。

 5歳上の兄と4歳上の姉の3人きょうだいですが、姉は平成元年に大腸がんで亡くなりました。39歳でした。気丈な母が、姉の棺(ひつぎ)に向かって「アホ、アホ」と号泣、父も呆然(ぼうぜん)としていました。兄と「これ以上、父と母を悲しませられない。お互い長生きしような」と誓いました。その兄も10年に膵臓(すいぞう)がんで49歳で亡くなりました。

 1人残された僕は、なんとしても父母をみとらねばならないと決意しました。僕は15年に49歳で銀行を辞めたのですが、そのときは父母がまだ生きていたので、小説家なら田舎に帰ってもできるかもしれない、と思ったこともあります。

 その母は20年に83歳で、父は26年に88歳で亡くなりました。無事に2人を見送ることができたことはよかったと思っています。

 〈昭和47年、早稲田大学に入学する。あさま山荘事件が起きるなど、学生運動がまだ盛んな時代だった〉

 おやじもおふくろも小学校しか出ていません。兄も姉も高卒だし、大学に行ったのは僕だけ。政治経済学部でしたが、1年のとき、文学部のゼミも取っていました。「近代文学の作家について書きなさい」と宿題が出て、親しかった同級生と「早稲田の先輩の井伏鱒二さんと会ってみたいね」という話になりました。「黒い雨」や「山椒(さんしょう)魚」が好きだったんです。

 当時は学生運動が盛んで、鉄パイプで殴られ大けがをする学生がいっぱいいた。僕らもデモに参加することになって、願掛けのつもりで「デモでけがをしなければ井伏先生に会いに行こう」と話しました。(聞き手 平沢裕子)

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