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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第2章 時代の先駆者が伝えるもの(7)

楠妣庵観音寺に建つ楠木正行、久子の母子像=大阪府富田林市(恵守乾撮影)
楠妣庵観音寺に建つ楠木正行、久子の母子像=大阪府富田林市(恵守乾撮影)
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 ■背中で教える父 母は言葉で

 〈正成忝(かたじけな)くも朝憲(てうけん)を仰ぎ逆徒に敵對(てきたい)するの刻(とき)、天下静謐(せいひつ)に属し…〉

 前回紹介した楠木正成(くすのき・まさしげ)の自書・法華経奥着(ほけきょうおくがき)(重文、湊川神社所蔵)の一部である。勅命(ちょくめい)(天皇の命令)を奉じて鎌倉幕府を打倒し、平和な世に戻した喜びと自負があふれている。

 後醍醐天皇に召し出されるまで無位無官、正規な武士である鎌倉幕府御家人でもなく、河内国の一武士にすぎなかった正成が、天下国家を意識できた理由を、作家の童門冬二さんはこう推測する。

 「中国古典の『大学』を読み込んでいたのでしょうね。その影響がうかがえます」

 『大学』は、二宮金次郎が歩きながらも読んだとされる古典で、人間の成長を「修身斉家(せいか)治国平(へい)天下」という言葉で説く。まずは自分自身の道徳、価値観を確立し、次いで家族を持って家長として家をまとめることを目指せ。それができた後には国を治める器量人となれというのだが、この場合の国は地域社会レベルのこと。正成の時代でいえば河内国のことだ。

 「後醍醐天皇に会う前の正成は、河内国の配水権と流通を握り、鎌倉幕府の任命した地頭の横暴を牽制(けんせい)し、敵対したりしていた。河内国がどうあるべきかと考えるようになっていた正成に天下(日本)という視点を与え、どんな天下であるべきかを考える視界を開いたのが後醍醐天皇。いわば師だから正成は生涯、天皇を裏切らなかったのでしょう」

 童門さんは著書『楠木正成』で、そうした正成の成長を支える存在として妻の久子を描いている。

 〈久子は、(わたしって、悪い性(さが)の女かしら?)とみずからを疑った。しかし、常に正成の反権力的行動には、手を叩(たた)いて逆に励ますような行動をとりつづけた。正成は苦笑した〉

 正成の思想が嫡子・正行(まさつら)に正確に引き継がれ、楠木家が団結して反鎌倉、反足利の姿勢を貫けたのには、久子の存在が大きかったと見るからだ。

 久子は『太平記』では、「後室(未亡人)」「正行の母」として描かれる。久子の名は『太平記』にはない。湊川(現神戸市)の戦いで敗死した正成の首が河内に帰って来た時、数え11歳の正行は取り乱して自害しようとする。それを言葉を尽くして翻意させるのが「正行の母」である。

 「汝(なんじ)残り留まらば、一族若党をも扶(たす)け置き(一族家来を養い)、身を全くし(見事に成長し)、君いづくにも御座(ぎょざ)あらば、今一度義兵を挙げ、朝敵を滅ぼして、君をも安泰になし奉り、父が遺恨をも散じ、孝行の道にも備へよとてこそ残し置きし身なる」

 正成が実践した「修身斉家治国平天下」の教えに従うことを嫡子に求める言葉そのものである。さらに責めるように言う。

 「当座の歎(なげ)きに引かされ、行末を顧みず、父の恥を雪(すす)がず、われになほ愁(う)き目を見せんとする、うたてのあどなさよ(情けない幼さよ)」

 母は、それでも自害するならまず、自分を刺せと迫った。母の教訓と父の遺言に目覚めた正行のその後を『太平記』はこう書く。

 〈一筋に身を全くして、あだなる戯れ(あどけない子供の遊び)にも、ただこの事をのみ思ひつつ、武芸智謀の稽古(けいこ)の外(ほか)、また為(す)る態(わざ)もなかりけり〉

 いかなる時も武芸武略を磨いた正行は、夫唱婦随の教育のたまものだったのだ。

 正行は父の十三回忌を済ませた後、挙兵して四條畷(しじょうなわて)(現大阪府)の戦いで足利幕府の大軍に敗れ、自害する。左目のほか4カ所に矢傷を負い、手勢が113人に減るまで奮戦した後、弟の正時と刺し違えるのだ。

 父・正成は湊川の戦いで11カ所の手傷を負い、手勢が70余人に減るまで奮闘した後、弟の正季(まさすえ)と刺し違えた。

 「正行は、残っている書から感じる教養といい、天皇のために最期の時まで戦い抜く忠誠心といい、父の正成そっくり。父親と心を一つにして生きた人だと思います」

 四條畷楠正行の会の扇谷昭代表はそう話す。湊川の戦いでわずか700騎で足利直義(ただよし)の30万騎と戦った正成は、ただ一筋に直義の首をねらった。3千騎で6万の高師直(こうのもろなお)軍を迎え撃った正行もひたすら、師直を討とうとした。

 直義は、馬を失って討ち死に必至となった時に、家来が馬を譲って九死に一生を得た。師直は、家来が身代わりの名乗りを上げて討ち取られたことで命拾いした。劣勢で大軍を向こうに回し、敵将をあと一歩まで追い詰める奮闘ぶり。正成と正行の最後の戦いは、何から何までそっくりだ。

 背中で生きざまを教える父親と、言葉で教えを補完する母親。楠木家の団結は現代でも通用するような家庭像から生まれているように思える。「楠公さん」が時代を超えて愛される理由の一つだろう。=毎週金曜掲載

 ■正成の妻

 『太平記』では「後室」「正行の母」とのみ書かれる楠木正成の妻は、正成を祭る湊川神社(神戸市中央区)が発行する『大楠公』ではこう書かれている。

 〈御夫人の御名、滋子、久子等諸説あり。出自につきても一説には藤原藤房の妹なりと言ひ、又他説には南江(みなみえ)正忠の妹なりとも言ふ〉

 南江正忠は、河内国甘南備(かんなび)(現大阪府富田林(とんだばやし)市)の豪族で、同所にある楠妣庵(なんぴあん)観音寺は夫人が夫と息子の菩提(ぼだい)を弔い、終焉(しゅうえん)の地になったと伝わる。正成と結婚した時は20歳とされ、30歳だった正成と同様、当時としては晩婚だった。

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