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【万葉賛歌】その時代(3)「謀略」に消えた2皇子

 この28年後に起きたのが、「大津皇子(おおつのみこ)の変」である。ライバルの草壁皇子(くさかべのみこ)とともに天武天皇の息子で、年齢は大津皇子が1歳年少。「博覧にしてよく文をつくり、力が強く剣戟(けんげき)に秀でていた」(「懐風藻(かいふうそう)」)という。

 この事件が一層涙を誘うのは、大津と草壁の母同士が姉と妹(大田皇女(おおたのひめみこ)と持統天皇)だったことである。天武天皇の在世時、争いは表面化しなかったが、686年9月、天皇が亡くなると対立は一気に噴出した。

 1カ月もたたない10月2日、大津皇子は逮捕され、翌日、死を賜(たまわ)った-と日本書紀にはある。遺体を二上山に葬ったおり、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が《うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟と我が見む》と詠んで、最愛の弟の死を悼んだ。(客員論説委員 渡部裕明)

岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまたかへりみむ(巻2-141)

【口語訳】

岩代の浜松の枝を引き結んで、幸いに無事であったら、また帰って来て見ることであろう。(岩波文庫版「万葉集」から)

うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟(いろせ)と我が見む(巻2-165)

【口語訳】

この世の人である私は、明日からは、二上山を弟として眺めることでしょうか。

(岩波文庫版「万葉集」から)

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