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【万葉賛歌】その時代(3)「謀略」に消えた2皇子

大津皇子の悲劇を伝える二上山。雄岳山頂近くに宮内庁が管理する墓があるが、実際の墓は山麓にある鳥谷口古墳とされる(彦野公太朗撮影)
大津皇子の悲劇を伝える二上山。雄岳山頂近くに宮内庁が管理する墓があるが、実際の墓は山麓にある鳥谷口古墳とされる(彦野公太朗撮影)

 「万葉の時代」はまた、政治的な謀略の渦巻く時代でもあった。とりわけ皇位をめぐる争いは悲劇的な結末を生み、のちの世の人々から深く愛惜されることとなる。

 最初の悲劇の主は、有間皇子(ありまのみこ)である。「乙巳(いっし)の変」(645年)のあと即位した第36代孝徳(こうとく)天皇の遺児。ライバルの中大兄皇子は年長の従兄(いとこ)という間柄だ。

 有間皇子の運命は父帝と中大兄の間に確執が生じたときから決定づけられていたともいえる。653年、中大兄は母、皇極(こうぎょく)上皇(のちの斉明(さいめい)天皇)とともに難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)を去り、飛鳥へ戻った。孝徳天皇は翌年、難波で一人寂しく崩御したのだった。

 先帝の嫡男とはいえ外祖父(阿倍内麻呂(あべのうちまろ))も亡くした有間皇子が、政権内で孤立を深めたことは想像に難くない。日本書紀によれば、重祚(ちょうそ)した斉明女帝が中大兄とともに牟婁湯(むろのゆ)(和歌山県の白浜温泉)に湯治に出かけたおり、中大兄の腹心の蘇我赤兄(そがのあかえ)が皇子に近づき、謀反を持ちかけたという。

 「斉明天皇の政治には、三つの失敗があります…」

 この言葉に皇子は大きくうなずき、「兵を用いるべき時が来た」と答えたとある。ときに有間皇子、まだ19歳だった。

 やりとりは中大兄に急報、捕縛された有間皇子は白浜に送られ、中大兄から尋問を受けた。謀反の理由を問われ「天と赤兄が知っている」とだけ答えたという。皇子は藤白坂(ふじしろさか)(和歌山県海南市)で絞首された。

 《岩代の…》の歌は護送の途中、白浜の手前の岩代(みなべ町)で皇子が詠んだ一首である。松の枝を結ぶのは旅の無事を祈る習俗だが、彼自身、再びこの松を見るとは思っていなかったのではないか。みなべ町岩代には現在、「結び松記念碑」が立ち、万葉ファンの聖地となっている。

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