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【本郷和人の日本史ナナメ読み】天皇と「光」(下)

 同じ「後プラス異称」でも、江戸時代初めの後水尾天皇のお名前にはいろいろと問題があり、難解です。「後プラス水尾」天皇。水尾天皇という方はいらっしゃらない。調べてみると清和天皇の異称が水尾天皇。ということは天皇は「朕の号は後の清和天皇とせよ」と考えられた。ここまでは分かります。

 そこで問題その1。「水尾」の読みは「みずお」か「みのお」か。貞観18(876)年、清和天皇は皇子の陽成天皇に皇位を譲り、2年あまり後に出家。翌年3月に丹波国水尾の地に入り、絶食を伴う苦行を行いました。この地を隠棲(いんせい)の地と定め、寺の建立を始めたのですが、その途中に病を得て亡くなり、同地に陵が築かれたのです。そのために清和天皇は「水尾天皇」の異称をお持ちで、これをもとにして後水尾天皇という呼び方が生まれた。

 ここで問題になるのは地名である「水尾」。これは古くは「みずお」、もしくは「みずのお」と読んだ。ところが江戸時代は「みのお」となった。今も「みのお」。となると、後水尾天皇は江戸時代の方だけに「ごみのお」天皇でもいいかもしれませんが、宮内庁の見解では「ごみずのお」天皇です。清和天皇の時代の呼び方に従っているのでしょう。

 問題その2。天皇は父君が亡くなると、後陽成天皇の名を奉った。後の陽成天皇ですね。でも陽成天皇は、今でこそ、その評価は藤原摂関家による陰謀だったのではないかと主張する研究者がいるのですが、江戸の当時は粗暴な行いを理由に評判の芳しくない方だったのです。後水尾天皇はわざわざ、よいとはいえないお名前を父君に付した。

 実はこの親子は、仲が良くなかった。後陽成天皇は弟君の八条宮智仁親王を愛し、帝位をこの方に譲ろうとしたのですが、親王が豊臣秀吉の猶子(ゆうし)だったこともあって、幕府の反対によって実現しなかった、といわれます。そのために後陽成は自らの皇子で後継者となった後水尾とよくなかった。後水尾天皇にとってみると、とんだとばっちりなのですが。

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