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【本郷和人の日本史ナナメ読み】天皇と「光」(下)

後陽成天皇宸影=模本、東大史料編纂所蔵
後陽成天皇宸影=模本、東大史料編纂所蔵

 ■「後水尾」「後陽成」父子の号の謎

 野村朋弘氏の『諡(おくりな)』(中央公論新社)を見ながら、天皇のお名前について引き続き。

 歴代のうちには、「後」という字を用いる方が少なからずいらっしゃいます。後白河天皇、後鳥羽天皇など。鎌倉時代末から南北朝時代にかけて、大覚寺統は親子でもって「後宇多-後醍醐-後村上」と続くわけですが、これは平安時代の「宇多-醍醐-村上」と続く親子の関係を強く意識したものです(なお、歴代でいうと、醍醐天皇のすぐあとは醍醐の皇子で村上の兄に当たる朱雀天皇となる)。

 少し前まで、後醍醐天皇は他の天皇と異なり、自分の追号(すなわち後醍醐)を自分で定めた方だ、と歴史研究者は説明していました。でもこれは誤りのようです。いや、後醍醐天皇は云々(うんぬん)…はその通り。けれどもそうしたのは、後醍醐天皇だけではなかった。鎌倉時代後期からは自分はこう呼ばれたい、と天皇は生前に強い意志を持っていた。それを例えば遺言として残したのです。そしてそれは多くの場合、「過去のあの方にならって、後の○○帝としてほしい」というものになりました。

 さて、その知識をもとに考えてみましょう。先週言及した後小松天皇(亡くなられるときは上皇でしたが、分かりやすく天皇とします)。この方も「朕(ちん)の名は後小松にせよ」と遺詔を残された方ですが、ここで、クエスチョン。歴代のどこを探しても、「小松天皇」という方はいらっしゃらない。いったい、どういうこと?

 正解は「異称」。天皇の中には正式な諡号(しごう)、追号の他に「異称」をお持ちの方がいらっしゃった。たとえば光孝天皇。この方は在位中に用いた元号から、「仁和の帝」と呼ばれることがあった。また、葬られた陵墓(天皇のお墓を山陵という)、小松山の陵(みささぎ)に由来して、「小松の帝」とも申し上げた。この「異称」を念頭に、「朕を後の光孝天皇とせよ」というのが後小松天皇のご遺志であり、そこを天皇はちょっとひねって「後の小松帝とせよ」とおっしゃったわけです。

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