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【万葉賛歌】その時代(2)大敗戦からの国づくり

熟田津の場所は三津浜説、重信川河口説などがあるが確定していない。戦争の危機が迫る中で斉明女帝らも心を震わせながらの出航だったのだろう =松山市の三津浜港(鳥越瑞絵撮影)
熟田津の場所は三津浜説、重信川河口説などがあるが確定していない。戦争の危機が迫る中で斉明女帝らも心を震わせながらの出航だったのだろう =松山市の三津浜港(鳥越瑞絵撮影)

 「万葉集」には古代国家への産みの苦しみに関連した歌がいくつかある。中でも最大の苦難は、第38代天智天皇の2(663)年、朝鮮半島西南部の白村江(はくすきのえ)で唐・新羅(しらぎ)連合軍と対決しての大敗戦だろう。

 ここへ至ったのには、4世紀以降の長い歴史がある。日本(倭国)は国内で産しない「鉄」や最新の文化を求めて朝鮮半島に渡り、国々の抗争に巻き込まれていった。友好関係を結んでいた百済(くだら)は西暦660年、唐・新羅連合軍に攻められ、都が陥落する。

 ときの斉明(さいめい)天皇と嫡男、中大兄皇子(天智天皇)は長年の友誼(ゆうぎ)を重んじ、百済を支援するため3万近い軍勢を派遣する決意を固めた。さらに女帝は68歳の高齢をおして、前線基地の九州に赴いたのである。

 別掲の歌はこの遠征の途中、滞在先の石湯行宮(いわゆのかりみや)(松山市の道後温泉付近)を出発するおりに、額田王(ぬかたのおおきみ)によって歌われた名歌である。熟田津(にきたつ)の場所については諸説があるが、瀬戸内海に面した港湾だったのだろう。

 昼間ではなく、なぜ暗い夜に船出したのか。謎に迫ったのが、今年2月に亡くなった古代史家、直木孝次郎さんの論文「夜の船出」である。瀬戸内海特有の陸風(海に向かう風)が吹き始める夜を待って出航したというのだ。

 何より疑いないのは、この出航が緊迫感にあふれていたことである。石湯行宮での滞在自体、約2カ月にも及んでおり、軍勢の確保にも難航していたのだろう。歌には、ともすれば不安に駆られがちな兵士らを鼓舞し、奮い立たせる意味あいが込められていた。

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