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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第2章 時代の先駆者が伝えるもの(6)書状から伝わる教養人の一面

自らの官職は書かず 正成が観心寺に出した書状。後醍醐天皇の意向を伝え、自らの官位官職は書いていない(観心寺所蔵)  
自らの官職は書かず 正成が観心寺に出した書状。後醍醐天皇の意向を伝え、自らの官位官職は書いていない(観心寺所蔵)  
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 楠木正成(くすのき・まさしげ)が自ら筆を取った書状は現在、8通が確認されている。うち2通は、楠木家の菩提(ぼだい)寺・中院を抱える観心寺(大阪府河内長野市)が所蔵し、国の重要文化財に指定されている。

 〈為御祈祷、御作不動可奉渡之由、綸旨如此、明後日廿八日御京着候之様、可被奉渡候〉

 こう書かれた1通は、宛名が「観心寺々僧」となっていて、日付は元弘3(1333)年10月26日。内容は大体、次のようなものだ。

 〈御祈祷のため、弘法大師が作った不動明王をお渡しいただくのは綸旨(りんじ)(後醍醐天皇の命令文書)にある通りだから、明後日の28日に着くよう、お願いします〉

 元弘3年は、千早城の戦いがあり、足利尊氏と新田義貞の離反で鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇が京の内裏に還御(かんぎょ)した年である。10月は北畠顕家(あきいえ)が義良(のりよし)親王を奉じて陸奥に下った時期だ。

 「後醍醐天皇は当時、御子の奥州遠征の無事を祈るためと、当時はやっていた疫病の退散を祈願するために、観心寺に安置されていた不動明王像を京に運ぼうとしたようです。その意向を受けてこうした書状を書くのですから、正成が天皇の側近で、政治向きでもすぐに役に立つ、学問ある人材だったことがうかがえます」

 同寺の永島龍弘(りゅうこう)長老はそう話す。もう1通は同じ日付で、中院で自分の学問の師だった龍覚(りゅうかく)に、不動明王像とともに上洛するよう勧めている。

 興味深いのは2通とも「正成」とだけ署名して花押(かおう)を押していることだ。この時にはすでに、河内守と摂津守に任官しているが、官職を全く書いていない。

 「正成にとって観心寺は家庭やふるさとみたいなもの。出世をひけらかすことはしない素朴さや教養を、文字も含めて感じます」

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