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【本郷和人の日本史ナナメ読み】天皇と「光」(上) 文字に秘められた意味は?

後光厳天皇宸影=模本、東大史料編纂所蔵
後光厳天皇宸影=模本、東大史料編纂所蔵

 日本一出世した人物というと、農民の子として生まれ、天下人にまで上りつめた豊臣秀吉でしょう。では中国で一番はだれか? 多くの人は明王朝を開いた朱元璋の名を挙げるのではないでしょうか。

 朱元璋(1328~98年)。廟号(びょうごう)(中国をはじめとする漢字文化圏において、先祖である皇帝や王を祭るための「廟」に載せるための名前のこと。日本はこれを用いていない)は太祖。治世の年号を取って(中国では明王朝から一世一元の制を用いた。日本では周知のごとく明治から一世一元)、洪武帝と呼ばれます。

 後に皇帝となる彼は、現在の安徽省鳳陽県の貧農の子として生まれました。家族は貧しさのゆえに餓死しましたが、彼だけは寺に身を寄せ僧になって、生き延びた。ただ生活は苦しく、物乞い同然であったといいます。紅巾の乱に参加して頭角を現し、江南を制圧して1368年に応天府(南京)で即位。そののち北伐の軍を起こして大陸を統一しました。

 朱元璋は同じ農民出身の劉邦(漢の皇祖)を強く意識し模倣したといわれますが、2人は共に、功成り名遂げた後に功臣を粛清しています。朱元璋の粛清事件は数度に及びますが、その一つが洪武14年(1381年)の「文字の獄」。これは「光」や「禿」といった字を使用した知識人層を、かつて貧乏僧であった皇帝を揶揄(やゆ)しているとして処罰したものです。このとき、薛祥(せっしょう)という功臣は杖で殴り殺されています。

 この頃、日本は南北朝時代で、京都と吉野に2人の天皇が並び立っていました。このうち京都の北朝は「光厳-光明-崇光-後光厳」と歴代が「光」の字を用いています。崩御された年次は順に1364年、1380年、1398年、1374年となりますので、同時期の「文字の獄」のことは伝わっていたのでしょうが、北朝の天子の「光」とは直接の関係をもちません。だが、両者の関係性は興味深い。今はまだ何の「思いつき」も浮かびませんが、どうにか両者を結びつけて考えてみたいと思っています。それはさておき。

 ではなぜ北朝の天子は「光」の字にこだわったのか。そこで参照したいのが、5月末に出版された野村朋弘氏の『諡(おくりな)』(中央公論新社)という本です。この本によると、「光」という字は、わが国では、皇位の継承に少し問題のあるときに用いられる字だそうです。例えば「光仁」天皇。この方は道鏡事件で有名な称徳天皇(生まれながらに皇位を約束された女帝であったので、生涯独身。所生の皇子、皇女はいない)が崩御されたときに、それまで皇位を独占してきた天武天皇系に代わり、天智天皇の子孫(天智天皇の第7皇子・施基親王の第6皇子)として62歳という高齢で即位された。この方の皇子が平安京造営で有名な桓武天皇となります。

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