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【歴史の転換点から】「本能寺の変」の真相に迫る(3)細川護熙氏「歴代当主は信長の恩感じてた」

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「本能寺の変」や信長・光秀・幽斎について語る細川護熙さん=東京都品川区(古厩正樹撮影)
「本能寺の変」や信長・光秀・幽斎について語る細川護熙さん=東京都品川区(古厩正樹撮影)
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 細川護熙さん(81)。第79代内閣総理大臣であり、細川幽斎(藤孝)を祖とする旧熊本藩主細川家の第18代当主である。その細川さんに、4世紀半の時を超えた“時代の証言者”として、「本能寺の変」とともに織田信長や明智光秀、そして幽斎について縦横に語ってもらった。(聞き手 編集委員・関厚夫)

 光秀と幽斎については、出会った当初は肝胆相(かんたんあい)照らす仲といいますか、上下関係はなかったと思います。でも、ともに室町幕府の最後の将軍となる足利義昭に仕えているうちに光秀は幽斎の麾下(きか)に入るのですね。光秀にしてみると物足りなかったのでしょう。足利将軍家や細川家のもとを飛び出すかっこうで、猛烈な勢いで台頭してきていた信長に仕官します。そしてとんとん拍子で取り立てられるようになり、後年、幽斎が信長の家臣になってしばらくすると今度は幽斎が光秀の麾下に入ることになり、立場が逆転します。

 本能寺の変のさい、出生年不明とされる光秀が50代半ばだったとすると、幽斎より5~6歳年長にあたります。そこに両者の出自や教養、武将としての能力などを比較・勘案しますと、「変」が起こるまでは「盟友」の側面もある一方、光秀と幽斎という2人の関係にはなかなか微妙なところもあったと推察されます。

信長は「多年の恩人」か「悪逆無道」か-究極の決断

 本能寺の変後、光秀から応援要請を受けたとき、幽斎は「自分は信長公のご恩を深く受けているので、落髪して多年の恩を謝す」と宣言し、即座に光秀と絶縁します。その判断にいたった理由については種々の史料をひもといてもよくわからないところがあります。ただ、長男の忠興に対して「その方は光秀とは聟(むこ)と舅(しゅうと)の間柄なのだから彼に与(くみ)すべきか否かは心のままにせよ」と述べたのは、「忠興が光秀に与することはない」とわかっていたうえでの発言でしょう。

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