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【話の肖像画】前統合幕僚長・河野克俊(64)(3)父の異動で各地を転々

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父、克次さん(左から2番目)が再就職した大阪府茨木市で両親、5人のきょうだいと(右から3人目が本人)
父、克次さん(左から2番目)が再就職した大阪府茨木市で両親、5人のきょうだいと(右から3人目が本人)

 〈警察予備隊、保安隊などを経て自衛隊が創設されたのが昭和29年7月。その年の11月に河野氏は北海道で生まれた。旧海軍軍人で戦後は海上自衛隊に勤めた父、河野克次(かつじ)さんの転勤に伴い、長崎、広島、神奈川を経て大阪に移り住んだ〉

 退官の日は4月1日で、令和の元号が発表された日と重なりました。昭和29年生まれで今は64歳。自衛隊とともに生まれ、育ちました。実質的に平成が幕を閉じていく雰囲気の中で退官したことは、一つの時代の区切りに自分も区切りをつけることができたと感じています。

 函館で生まれたのは、父が海自の初代函館基地司令として勤務していたからです。私が生まれる直前に、青函連絡船の洞爺丸が台風のため沈没する大事故が起きました。父はその救難に当たりました。

 翌年に護衛艦を造る長崎の三菱造船所の首席監督官となり、その後、第1術科学校(江田島)の副校長、第2術科学校(横須賀)の校長を務めました。そこで父は定年退官しましたが、再就職先が大阪の湯浅電池(現GSユアサ)に決まり、茨木市に家族で引っ越しました。

 私は5人きょうだいで姉、長兄、次兄、妹がいます。大阪に引っ越したとき、私は小学校2年生、妹はまだ幼稚園にも行っていませんでしたが、上の兄は父の転勤で高校を3回変わったそうです。昔は単身赴任というのはあまりなかったので、そうならざるを得なかったのですね。

 父は3人の息子のうち、だれか1人は自分の後を継がせたいと常々公言していました。ただ、小さい頃の私は、兄がその道に進むと思っていたので、自分の進路として自衛隊を考えたことはありませんでした。

 特に何になりたいという明確な目標は持っておらず、むしろ「父親と同じ仕事には就きたくない」という気持ちが強かった時期もありました。

 〈河野氏は防衛大時代、ラグビー部に所属した。高校時代もハンドボール部に入るなど、スポーツは好きな少年だった。将来への目標が定まらないまま、学校の成績は良かったり悪かったりだったという〉

 高校は大阪府立春日丘高校に進みました。上の兄は父のあとを継がずに医者の道に進み、次兄も行かないという。それで私にお鉢が回ってきたわけですが、その頃になると私も他に具体的な目標があったわけでもなく、自然と防衛大を目指すことになりました。

 しかし、当時は自衛隊への風当たりがまだ強い時代で、大阪はとくにそういう傾向が強かったと思います。防衛大に行くといっても、周囲でそんな人はいませんでした。高校の先生たちは違和感を抱かれたと思います。

 〈高校3年の秋に試験を受け、父親も後継者が決まったと安心していたところだったが、思わぬ事態となる〉

 2月の合格発表で、不合格となったのです。おやじはがっくりするし、私も他の受験などしていなかったので他に行き先もなく、友人と一緒に予備校に入る手続きなどをしていたんです。(聞き手 石井聡)

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