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【歴史の転換点から】「本能寺の変」の真相に迫る(2)信長を神明が罰した

細川幽斎の領国・旧丹後国の名勝・天橋立。ここで幽斎は明智光秀とともに風雅を楽しんだという=京都府宮津市(関厚夫撮影)
細川幽斎の領国・旧丹後国の名勝・天橋立。ここで幽斎は明智光秀とともに風雅を楽しんだという=京都府宮津市(関厚夫撮影)
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 「信長はわれに度々面目を失わせ、わがままの振舞いばかりであることから、父子ともに討亡し、鬱積を晴らしました。つきましては軍勢を引き連れて早々に御上洛を。今後は何事も念には念を入れて協議しましょう。また幸いにも摂津国(大阪府北西部と兵庫県南東部)には主がおりませんから、ご領有ください」

 激怒した忠興は沼田を殺そうとしたが、幽斎は「使者に罪はない」として光秀のもとに送り返した。すると光秀から書状が届けられた。そこには「落髪したことに一時は立腹したがいまは納得した」「摂津国以外に若狭国(福井県南西部)が所望ならば割り当てよう」「この不慮の一件は忠興たちを取り立てたいがためのこと。50日から100日の間に近国を固め、後は忠興たちに引き渡す」などと記されていた。

 以上、『細川家記』の記述である。が、同書もタネ本にしたとみられる『永源師檀紀年録』には、最終的に謀反の首謀者・光秀に見切りをつけるという判断は同じながら、次のような興味深い話を収載している。

 「近年、織田家は権を誇り、おごり高ぶって他を軽侮しており、その対象は光秀だけでなく、諸将みな同じである。かつ日蓮宗を信じて他の諸寺や諸社を焼却した事例は数え切れない。たとえ戦火でその地を焦土と化しても、後には再建してこれを敬すのが武門の習いだが、かの公(信長のこと)にそんな気持ちは決まったくない。悪逆無道比類を絶し、人望はない。ゆえにいま、光秀の手を借りて神明が罰したのだ」

 幽斎の次男、興元の発言である。彼はさらに「われらは織田家に深恩があるわけではない」と続け、友好関係にあった光秀にすみやかに援軍を送るよう主張した。これに対して忠興は「一理はあるが、代々の領地を失い、身の置き所がなかったわれわれが丹後を領有するようになったのは織田家の恩である」と反論。それまで黙って聞いていた幽斎は「忠興に理がある」と決したという。

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