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【歴史の転換点から】「本能寺の変」の真相に迫る(2)信長を神明が罰した

貴種・幽斎と中間(ちゅうげん)・光秀-交差する運命

 その幽斎は2歳年下の13代将軍、足利義輝(よしてる)の側近中の側近である御供衆(おともしゅう)に抜擢され、義輝が暗殺された後は「最後の将軍」となる足利義昭の擁立に尽力。幽斎が光秀と知り合ったのは、将軍になれないまま義昭が越前国(福井県北部)・朝倉義景のもとに身を寄せた永禄9(1566)年前後とみられる。義昭に仕えるようになった光秀は幽斎の指揮下(「中間」という説も)にあったとされる。

明智光秀軍が京都・本能寺へ向けて進発した亀山城跡に残る石垣。下から全体の約3分の1の高さまでは築城当時の遺構という=京都府亀岡市の天恩郷(関厚夫撮影)
明智光秀軍が京都・本能寺へ向けて進発した亀山城跡に残る石垣。下から全体の約3分の1の高さまでは築城当時の遺構という=京都府亀岡市の天恩郷(関厚夫撮影)
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 信長によって義昭が追放された天正元年以降、幽斎は信長に仕える。光秀はその2年前、義昭と信長の双方の家臣を兼ねるという変則的な主従関係を解消して信長に“専従”。その後、光秀が織田家でめきめきと頭角を現すなか、幽斎も信長にその文武両道にわたる能力を高く買われ、丹後国(京都府北部)を任されるものの、彼は「近畿方面軍司令官」である光秀の指揮下に組み入れられる。

 天正6年、光秀の娘、玉(後のガラシャ)と幽斎の嫡男、忠興との婚姻が結ばれる。幽斎と光秀は苦楽や風雅の道をともにした長年の戦友であり、縁戚でもあったが、微妙な部分を内包する関係だったといえる。

光秀の手を借りて神明が信長を罰す-史料は語る

 「自分は信長公の深いご恩を受けた身であるから落髪して多年の恩を謝す。その方は光秀とは聟(むこ)と舅(しゅうと)の間柄だから、彼に与(くみ)するか否かは心のままにせよ」

 本能寺の変の翌日、丹後・宮津城に京都からの飛報がもたらされた。幽斎は天を仰いで悲嘆した後、忠興にそう告げた。忠興は涙ながらに父・幽斎の決意に同意し、ともに落髪した。

 おそらくその日のうちのことだろう。光秀の家臣、沼田光友が宮津城を訪れ、光秀の言葉を伝えた。

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