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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第2章 時代の先駆者が伝えるもの(4)知謀育んだ幼年期の教育

三日市町駅前の「多聞丸(楠木正成) 大江時親に学ぶ像」=大阪府河内長野市(恵守乾撮影)
三日市町駅前の「多聞丸(楠木正成) 大江時親に学ぶ像」=大阪府河内長野市(恵守乾撮影)

 大阪府の南東部、河内長野市の南海高野(こうや)線三日市町(みっかいちちょう)駅。真言宗の開祖、弘法大師・空海が開いた高野山(和歌山県)への参詣(さんけい)道、高野街道が南北に通る町の駅前近くに平成30年3月、地元住民らの手によって2人の人物の石像が設置された。

 〈多聞丸(たもんまる) 大江時親(おおえ・ときちか)に学ぶ像〉

 多聞丸は幼年期の楠木正成(くすのき・まさしげ)の名だ。伝承によると、正成は8歳から15歳まで楠木家の菩提寺(ぼだいじ)、中院がある真言宗の寺院、観心寺で僧・龍覚(りゅうかく)に学問を学ぶ一方、観心寺から約8キロ離れた時親の邸宅まで通った。時親は正成に『孫子』や『闘戦経(とうせんきょう)』など兵書を教授した。

 大江家は、鎌倉幕府の政所(まんどころ)初代別当(長官)を務めた大江広元を祖とする。もともとは朝廷で『孫子』なども含む漢書を管理する下級貴族の家ともいわれ、時親は武士の教育係としては格好の存在。石像は、正成の武略がどう育まれたかを想像させるものだ。

 「南河内の地で正成は、人としていかにあるべきかを学び、文武両道にわたって自らのバックボーンを培った。今も残る伝承を石像という形で残し、多くの人に知ってもらうことには大きな意味がある」

 観心寺の永島龍弘(りゅうこう)長老はそう話す。正成が通ったという故事にちなみ、三日市町駅近くの交差点には「楠公通学橋」の名が今も残る。

 〈正成は、元来(もとより)策(はかりごと)を帷幕(いばく)の内に運(めぐ)らして、勝つ事を千里の外に決せん事、恐らくは陳平(ちんぺい)、張良(ちょうりょう)が肺肝(はいかん)の間より流出せる如(ごと)きの者〉

 『太平記』は、正成の知謀の高さを前漢の高祖劉邦(りゅうほう)を補佐した謀将、陳平や張良になぞらえて称賛する。鎌倉幕府の大軍を相手に、下赤坂城や千早城で行った籠城戦では、少数の兵力を機動的に駆使して矢の雨を降らせ、大木や石、熱湯など使えるものは何でも利用した。鎌倉方にとっては、これまで経験したことのない戦いだった。

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