PR

ライフ ライフ

【日本人の心 楠木正成を読み解く】第2章 時代の先駆者が伝えるもの(3) 周到な籠城 合理的な戦略

 昭和10年に出版された『古戦場物語』という本に、千早城の備蓄に関する記述が出てくる。数字の信憑(しんぴょう)性はともかく、正成が籠城の準備に万全を期していたことは確かだろう。

 翌元弘3年2月、正成は天険の地・千早城に籠もる。山間部で戦うことで、関東の騎馬武者の力をそごうとしたのだ。楠木軍にてこずれば幕府の威信は地に落ち、逆に一蹴しても当然で、幕府の威信は上がりはしない。恩賞の問題が残るだけ。ここにこそ正成の狙いがあるといえよう。

 「籠城中、領民が兵糧を運び入れていたとも伝わっています。強い信頼関係と考えられます。また籠城開始は今の暦で4月末から5月初旬。ウサギや鳥、植物などの調達が可能になる季節です」

 千早赤阪村教育課の原田沙由未(さゆみ)主事は、兵糧事情についてこう解説する。

 補給という点では、阪南大の和泉大樹准教授の指摘も興味深い。

 「正成は、常に逃走ルートを確保した上で築城しています。千早城も金剛山を経由し奈良方面へ抜けられる。それは裏を返せば、兵糧の補給路にもなります」

 実際そうした道を使って紀州・中辺路(なかへち)の武士、野長瀬六郎盛忠が米500石を3回運び込んだと原田主事は話す。その縁で千早赤阪村は昭和57年、和歌山県中辺路町(現田辺市)と友好提携。平成6年には恩返しにと村民らが当時のルートを中辺路まで4日がかりで歩いたという。

 兵糧と同様、籠城に重要な水はどう確保したか。

 「正成は水源も熟知して、千早城を造ったのでしょう。もともと、この地域の水を管理していたと考えられます」

 和泉准教授はそう話す。

 『太平記』によると、千早城の辺りには山伏のみが知る水源が5カ所あり、一夜に900リットル湧くという。また水桶(みずおけ)を城内に200~300個設置。樋(とい)を巡らせ、雨水も残らず貯(たくわ)えた。

 <舟の底に赤土を沈めて、水の性(しょう)を損ぜぬやうにして拵(こしら)へたり>

続きを読む

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ