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【話の肖像画】現役最年長サッカーライター・賀川浩(94)(7)余計なことをする性分

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 〈1964(昭和39)年の東京五輪では、開会式の1面原稿を同僚の北川貞二郎が、閉会式は自分が書いた〉

 開会式は北川さんが書き、閉会式は僕が書くのがサンケイスポーツの社内の不文律のようになっていたんですよ。ボートの選手だった北川さんは昭和18年に学徒出陣で明治神宮外苑競技場を歩いた思い出を、開会式で入場行進する各国の若い選手たちの姿に重ね合わせていた。文章が評判良くてね。僕は閉会式の原稿の構想を練っていたけど、各国の選手たちがバラバラに入場してきて思惑が違った。ともかく、開閉会式を2人で書き、編集局長から「サンケイスポーツが一番良かった」とほめられた。北川さんと僕は長い仲。しかも、(五輪報道の第一人者の)木村象雷に育てられた。それで格好をつけたわけですよ。

 〈昭和57年に第1回大会が開かれた大阪国際女子マラソンの創設にも関わった。今では新春の浪速路を彩る風物詩として親しまれ、今年1月の大会で38回目を迎えた〉

 僕はサンケイスポーツ(大阪)の編集局長だった。ある日、産経新聞の編集局長とともに大阪代表を務めていた永田照海さんに呼ばれて「君らが『あかん』というのならやらんでいい。やれるかやれんのか、しっかり答えてくれ」と大阪でのマラソン大会開催について打診されたんですよ。僕はついうっかり「やれますよ」と答えてしもうた。それで当時、大阪陸上競技協会の理事長をしていた木南道孝さんを訪ねることになった。木南さんは陸上110メートル障害の元日本記録保持者で、1952(昭和27)年ヘルシンキオリンピックの代表。筋を通す人でね。他社は事業部の連中だったが、ウチは編集局長2人が雁首(がんくび)をそろえて訪ねたことで承諾してもらえた。最初は「3回まではやりましょう」ということだったが、今でも続いている。産経新聞社の立派な財産ですよね。

 〈なんでも目新しいことに挑戦する性格。それがサンケイスポーツの部数増にもつながった〉

 ナンバーワンになるのは、どんな小さなことでも楽しいもんです。神戸一中(現神戸高)でサッカーをやっているころからそう思っていた。登山なんかも好きやったから、大学の山岳部の連中が会社に来るようになってね。たまり場みたいになったりもした。僕は山の記事なども書いていたから、社会部とも関わりがあった。そういうことで、サッカー以外にも付き合いが広くなった。なんでも面白がることが大切。さかのぼると、神戸一中でマネジャーをしていたころから、余計なことをする性分だった。自分でサッカーボールの修繕もした。物資が不足していた時代だったしね。最上級生の夏にレギュラーになって試合が終わったら倒れたんです。理由は、前の晩にボールを直していたから。本業以外にいつも余計なことをしているのが、僕の長い生涯の特徴なんですよ。(聞き手 北川信行)

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