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【話の肖像画】現役最年長サッカーライター・賀川浩(94)(6)多士済々の編集局

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国際サッカー連盟(FIFA)会長賞受賞祝賀会で、かつての同僚だった北川貞二郎氏(右)の話に耳を傾ける賀川浩氏=平成27年2月
国際サッカー連盟(FIFA)会長賞受賞祝賀会で、かつての同僚だった北川貞二郎氏(右)の話に耳を傾ける賀川浩氏=平成27年2月

 〈産経新聞に入社したときの大阪の運動部長は木村象雷。1928(昭和3)年アムステルダム五輪に出場した競泳の選手で、五輪報道の第一人者だった。同僚には後にサンケイスポーツの社長となる北川貞二郎がいた〉

 木村さんが部長をしていたのは、僕にとっては幸いだった。1年先輩の北川さんとは産経新聞に入ったときからの親友でライバル…。木村象雷という大記者の薫陶を一緒に受けただけでなく、さらさらっとうまい文章を書く北川さんの原稿が刺激になった。文化部のデスクには司馬遼太郎さんがいた。ただ社内的には、文化部にも運動部にも文筆家が何人もいてね。司馬さんと張り合おうという人たちが多かった。結局、司馬さんだけが有名になったんだけどね。そういう人たちが文章をどう書くかのこだわりはすごかった。

 〈多士済々の人材がそろっていた〉

 あるデスクは原稿を直すのがめちゃくちゃうまかった。横で自分の原稿が直されるのを見ていて感心するほど。そういういい先輩、仲間に恵まれたのは大きかった。木村さんは文章の始まりの「~は」と「~が」の違いからこだわっていた。30行ぐらい書いたのが、半分の15行に削られて「必要にして十分な原稿とはこれですよ」と言われたことを覚えている。アジア大会に陸上競技で出場した女性記者がいてね。ある日、今までそこにいたのに突然、いなくなった。捜すと、机の下で泣いている。「部長に原稿を直され、小学生のような文章になった」というのが理由。僕は「小学生の文章というのは誰にも分かるいい文章や」って慰めたんだ。なにせ、会社が伸びている時期で、編集局全体に活気があったね。

 〈新聞社自体が生き生きとしていた時代に記者として育った〉

 産経新聞の朝刊がまだ4ページの時代。紙がない頃だったが、あまり質の良くない仙花紙を使うことを始め、6ページにしたんだ。2ページ増えた分は、スポーツ面を1ページつくり、もう片面が婦人欄。これが当たって、評判になってね。それまではスポーツといえば野球の記者ぐらいだったけど、幅広い分野の記者がいるということでね。スポーツの読み物が多いというので、部数がぼんぼんと伸びたんですよ。

 〈昭和30年には、産経新聞大阪本社が日刊サンケイ・スポーツ(現サンケイスポーツ)を創刊する〉

 当時の記者は産経新聞とサンケイスポーツの両方に籍があったんですよ。木村さんは「スポーツ新聞をつくるのに、見出しなどをつける整理部は人がいる。記者はこのままでいい」という考えだった。だから記者は両方に書き分けていた。産経新聞の運動部がサンケイスポーツをつくっていたんですよ。38年から東京でもサンケイスポーツを発行することになった。軽井沢で開かれたスピードスケートの世界選手権が創刊のきっかけ。それを取材したのも、僕なんですよ。(聞き手 北川信行)

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