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【地名研究室】分倍(東京都府中市) やせた土地が由来? 歴史に残る戦いも

京王線分倍河原駅の近くにある新田義貞像=府中市片町
京王線分倍河原駅の近くにある新田義貞像=府中市片町
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 東京都府中市にある京王線分倍河原(ぶばいがわら)駅を降りて南口に出ると、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した武将、新田義貞の大きな銅像がある。駅名は、この地で鎌倉幕府が滅亡するきっかけの一つとなった「分倍河原の戦い」が起きたことにちなんでいる。

 「分倍」の名前は、市によると、この地が多摩川の氾濫や土壌の影響で収穫が少ないために、律令制で民衆に支給する口分田(くぶんでん)を倍の広さにしたことに由来する説があるという。やせた土地を象徴していたわけだ。

 分倍河原の戦いは、武蔵国府が置かれた府中の歴史にとっても大きな転機となった。同市郷土の森博物館の小野一之館長(58)は「国府は政治と軍事の拠点。ここを守れるか奪われるかが重要だった」と話す。

 元弘3(1333)年5月、義貞は倒幕の命令を受け、上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)で兵を挙げ、鎌倉を目指した。

 対するは鎌倉幕府側の北条氏。両軍は府中の地で激突した。義貞の軍は鎌倉の新鋭補充軍にたたかれ、惨敗して堀金(現在の埼玉県狭山市)まで退却を強いられる。しかし、鎌倉側とみなされていた三浦氏が精鋭を率いて加担し、義貞らの軍は分倍河原で北条軍を急襲。前日の勝ち戦(いくさ)に油断していた北条軍は、あっという間に敗れた。その後も義貞の追撃に抗しきれず、約140年続いた鎌倉幕府は滅亡することとなった。

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