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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第2章 時代の先駆者が伝えるもの(2)巧みな築城「無駄な戦いしない」

千早城跡(手前)をはじめとする河内の山間部。正成はここに城塞群を築いた=大阪府千早赤阪村(本社ヘリから、恵守乾撮影)
千早城跡(手前)をはじめとする河内の山間部。正成はここに城塞群を築いた=大阪府千早赤阪村(本社ヘリから、恵守乾撮影)

 楠木正成(まさしげ)が今も人気を集める要因には、忠臣ということ以外に、戦上手(いくさじょうず)ぶりがある。鎌倉幕府を相手にした倒幕戦で、その戦上手を支えたのは築城と籠城戦の巧みさだ。騎馬による弓合戦を表芸にし、土塁をめぐらせた館を攻める程度の籠城戦しか経験のなかった鎌倉武士にとっては、正成の籠城戦は初めて経験する先進的な戦だった。

 〈己れが館(たち)の上なる赤坂山に城郭を構へ、五百余騎にて楯籠(たてご)もる〉

 『太平記』は、正成の最初の籠城戦をそう書く。赤坂山の城郭とは、現大阪府千早赤阪村にあった下赤坂城のことである。その様子は次のようなものだった。

 〈はかばかしく堀なんども掘らず、ただ塀一重(ひとえ)塗りて、方(ほう)一、二町には過ぎじと覚えたるその中に、櫓(やぐら)二、三十掻(か)き並べたり〉

 方は、四角形の一辺を表し、一町は約109メートル。城は長辺部分でも最大約220メートルということになる。そこに急造の櫓を密集して建てていたのだ。

 しかし、寄せ手は30万騎という大軍である。小さな山城を前にした心理を『太平記』はこう記す。

 〈楠が一日怺(こら)へよかし。分捕高名(ぶんどりこうみょう)して恩賞に預からんと、思はぬ者はなし〉

 城は一日も保てないだろうから、さっさと手柄を立てようと皆が思ったというのである。が、山城は堀はなくても騎馬武者の出足を鈍らせるには十分だった。塀の間際で勢いを失ったところで正成は、城内に籠めていた優秀な弓の射手200人に一斉射撃させ、そして連射させた。幕府勢はたちまち、1千人余りの死傷者を出して退却した。

 正成は城外に300騎を配置していた。その勢を退却して一息つく幕府勢に密集隊形で攻めかからせ、同時に城の200騎も討って出て挟撃戦で大勝した。

 正成が、下赤坂城の2年後に築城した上赤坂城は、山城としてさらに大きく進化する。その様子を『太平記』はこう記す。

 〈三方は、岸高くして屏風(びょうぶ)を立てたるが如し。南一方ばかりこそ、少し平地につきて細きを、広さ深さ十四、五丈に掘り切つて、岸の額に塀を塗り、上に櫓をかき並べ〉

 東西と北は、人馬を寄せ付けない垂直の山壁で、南の平地には広さと深さが45メートル近くある堀と塀、櫓をつくった城だったというのである。そこを攻める幕府勢は連日、5、6千人の死傷者を出した。

 正成は、こうした山城を主なものだけでも10カ所以上築いた。「赤坂城塞群(あかさかじょうさいぐん)」と総称される正成の城で興味深いのはその配置だ。坊領山(ぼうりょうやま)城は、上赤坂城へ向かうルートと枡形(ますがた)城につながるルートの拠点になっている。猫路山(ねこじやま)城には幕府勢が攻め寄せるだろう北に、地面を掘って切り通した「堀切」がある。幕府の攻撃で窮地に陥れば、次々と城を捨て、金剛山を経由して奈良方面などへ逃げていく意図が見てとれる。

 「正規の鎌倉武士から見れば、『正々堂々さ』は欠けているのかもしれないが、正成は『地の利』を生かした戦いに徹したのだと思います」

 千早赤阪村の元文化財担当職員の吉光貴裕さんはそう話す。

 「こうした発想で『寡をもって多を制す』という戦い方を、正成以前で確認するのは難しいです」

 その発想力は、倒幕戦の象徴になった千早城の戦いで、大石や大木、油などを寄せ手に浴びせる戦いぶりにつながっていく。

 「正成自害したる体(てい)、を敵に知らせんと思ふなり。その故(ゆえ)は、正成自害したと見及ばば、東国の勢(せい)、定めて悦(よろこ)びをなして下向(げこう)すべし」

 下赤坂城の戦いでは正成は、兵糧切れが近づく中で自ら城に火をかけ、正成が自害したと見せかけることを兵たちに伝えた。この奇策に幕府勢がだまされなかった場合には「山に引き入れて4、5回程度戦えば、敵はうんざりするだろう」との見通しも立てている。

 「正成が目指していたのは『鎌倉幕府の滅亡』であり、そういった意味では、城はどうなってもよい。そういう考えだったのだと思います」

 阪南大の和泉大樹准教授は、苦労して築城した山城にこだわりのない正成の考え方をそう分析する。吉光さんは、城塞群をつくり上げた正成の狙いをこう考える。

 「味方になるべく死者を出さず、相手が諦めてくれるのを待つ。つまり『無駄な戦いはしない』。それが正成の根本精神だったのだと思います」

 下赤坂城跡には現在、「史蹟 赤坂城阯」と刻まれた石碑が立つ。かつては幕府の大軍が埋め尽くした眼下の「下赤阪の棚田」は、農林水産省の「日本の棚田百選」に選定され、静かな田園風景が広がっている。

 ■赤坂城塞群

 千早赤阪村の山間部に密集する中世の山城跡の総称。楠木正成が鎌倉幕府軍とゲリラ戦を繰り広げる南北朝の動乱の舞台となった。

 主な山城は、金剛山と麓の村落を結び、いくつかのルートに分かれるように配置されている。中心をなすのは昭和9年に史跡指定を受けた千早城、上赤坂城、下赤坂城の3つで、坊領山(ぼうりょうやま)城、猫路山(ねこじやま)城、枡形(ますがた)城などが周囲に点在。城としての遺構は残っていない。

 『太平記』では赤坂城と千早城の2つしか登場しないが、赤坂城については同じ城とするのが難しい。このため、高い位置にある城を上赤坂城、低い位置の城は下赤坂城として区別されている。

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